悠久の日韓古代史・第2話「広開土王の時代」

高句麗と戦った倭

近肖古王が世を去って、百済は再び「危機の時代」を迎える。復活した高句麗がおそるべき脅威となったのだ。
391年に17歳で即位した高句麗19代王の名は談徳(タムドク)。死後に「広開土王(クァンゲトワン)」と尊称された王である。
彼は優れた製鉄技術を生かして強い騎馬軍団を作り上げ、百済を真っ先に攻めた。軍事の天才に圧迫されるようになった百済。時代を経るごとに劣勢になっていった。
反対に、高句麗は5世紀前半には東アジアの一大帝国を築いた。
朝鮮半島の歴史でも、史上最大の領土を誇ったのが、広開土王の時代だった。それが今の韓国で広開土王が尊敬される大きな理由だ。
これほどの英雄だが寿命は短かった。
413年に39歳で世を去った。
息子の長寿王(チャンスワン)は、父の偉業を世に残す碑を建てた。現在も中国・吉林省に残っている。




碑に記された廟号は「国岡上広開土境平安好太王」となっている。
朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』が「広開土王」と略称したことから、歴史的にこの名で知られるようになった。しかし、日本では正式名称の最後の3文字である「好太王」のほうがよく知られている。
碑には広開土王の業績が数多く記されており、「国が富み、民が安心して暮らし、五穀が豊かに実った」という礼賛が続く。
さらに興味深いのは、「倭の兵が辛卯年(391年)以来進出してきて、我らの軍と戦った」という主旨の記述があることだ。
この場合の「倭の兵」をどのように解釈したらいいのか。ヤマト政権から派遣された軍勢ではなく、日本から来て伽耶の土地に定住していた人々ではなかったのか。
彼らは人口が多く、伽耶でも一定の勢力を保って近隣地域に進出することもあった。
広開土王の碑文では、亡き王の業績を残す際に、元は外国勢力である「倭」と戦ったことを持ち出すことで、広開土王の偉大さを強調しようとしたのではないか。




つまり、領土拡張を狙って南下した高句麗軍には、異人風の軍勢が印象深かったのだろう。それが碑文の「倭」という文字につながっている。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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