518年間も続いた朝鮮王朝には42人の王妃がいた。その中で「悲劇の五大王妃」と呼ばれたのは、顕徳(ヒョンドク)王后、端敬(タンギョン)王后、仁穆(インモク)王后、仁顕(イニョン)王后、明成(ミョンソン)皇后の5人だ。
悲劇の3人
◆顕徳(ヒョンドク)王后
〔1418~1441年〕
5代王・文宗(ムンジョン)の妻。1441年に後の6代王・端宗(タンジョン)を出産した直後に急死。その後に文宗は新たな正室をもとうとしなかった。それほど彼女を愛していた。端宗は即位して3年後に叔父の世祖(セジョ)に王位を奪われ、その後に死罪となっている。
◆端敬(タンギョン)王后
〔1487~1557年〕
11代王・中宗(チュンジョン)の最初の正室。燕山君(ヨンサングン)を追放するクーデターが成功して異母弟の中宗が王に上がるとき、不安にかられた夫を精神的に支えた。しかし、叔母が燕山君の正妻であったことが問題となり、王妃になってわずか1週間で廃妃となってしまった。
◆仁穆(インモク)王后
〔1584~1632年〕
14代王・宣祖(ソンジョ)の二番目の正妻で、1606年に永昌(ヨンチャン)大君を出産。しかし、1608年に光海君(クァンヘグン)が王位に上がると、永昌大君は殺され、自身も幽閉されてしまった。1623年、クーデターで光海君が追放されると、光海君の斬首を強硬に主張。その願いはかなえられなかった。
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『七日の王妃』の端敬(タンギョン)王后はどんな女性だったのか