過去の記事一覧
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1545年、12代王・仁宗(インジョン)が亡くなり、異母弟の明宗(ミョンジョン)が即位した。彼の母は、中宗(チュンジョン)の三番目の正室だった文定(ムンジョン)王后である。彼女が行なった悪政は息子の明宗をとことん苦しめた…
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朝鮮王朝の518年間の歴史を見ると、悲劇的な死を遂げた世子(セジャ)が3人いる。それが、昭顕(ソヒョン)世子と思悼(サド)世子と孝明(ヒョミョン)世子である。この3人はどのような最期を遂げたのだろうか。彼らの人生を振り返…
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ホ・ジュン(許浚/1546~1625年)は400年近く前に亡くなった名医。彼のおかげでどれだけ多くの人の命が救われたことか。ホ・ジュンが著した『東医宝鑑』は日本や中国だけでなくヨーロッパまで鳴り響いた全25巻の名著であっ…
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世子(セジャ)といえば、朝鮮王朝の皇太子である。次の王が約束された身分なのだ。それなのに、その世子の中で外国の人質になった人がいる。それが、16代王・仁祖(インジョ)の長男だった昭顕(ソヒョン)世子である。
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張禧嬪(チャン・ヒビン)が19代王・粛宗(スクチョン)の側室になったとき、正室は仁顕(イニョン)王后だった。仁顕王后に早く子供ができていれば、王妃としての立場は磐石だったと思われるが、あいにく彼女は病弱で、床に伏す日が多…
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1506年に即位した中宗(チュンジョン)は端敬(タンギョン)王后を7日間で廃妃(ペビ)にせざるをえなかったが、次に迎えた正室が章敬(チャンギョン)王后だった。彼女が産んだ中宗の長男が仁宗(インジョン)であった。
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時代劇『イ・サン』の始まりでは、英祖(ヨンジョ)の息子の思悼世子(サドセジャ)が米びつに閉じ込められている場面が描かれていた。思悼世子の息子のイ・サン(当時10歳で後の22代王・正祖〔チョンジョ〕)は、米びつに近づいては…
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粛宗(スクチョン)が即位してから20年が経った1694年3月29日のことだった。当時の有力派閥だった西人派に所属する官吏の金寅(キム・イン)や他の数名が告発書を朝廷に提出した。その内容の一部に粛宗が驚愕した。なんと、「張…
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高麗王朝の末期、1335年生まれの李成桂(イ・ソンゲ)は、最上位の将軍にのぼりつめていた。1388年、中国大陸の明(ミン)と高麗との間に領土紛争が起こった。高麗王は重臣たちを集めて善後策を協議した。その結果、李成桂は明へ…
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韓国時代劇をより深く理解するためには、朝鮮王朝時代に社会に広く浸透した儒教を知ることも大切です。そもそも、朝鮮王朝時代にはなぜ儒教が重んじられたのでしょうか。その背景を説明します。
仏教と儒教の違い
1392…
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