過去の記事一覧
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1506年に即位した中宗(チュンジン)は、燕山君が行なった悪政を正すことに全力を注いでいった。まず、伝統的な学び舎である成均館(ソンギュングァン)の復活を急ぎ、虐殺事件によって被害を受けた人たちの名誉を回復させた。同時に…
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多くの血が流れた「甲午士禍」が終わった後の宮中は、無残な荒野のようだった。二つの虐殺事件の後、燕山君(ヨンサングン)の暴政はさらに悪化していき、庶民の暮らしは貧窮を極めた。
国家の一大事
庶民の暮らしが悪化し…
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王が絶対的な権力を持つ朝鮮王朝では、王が名君ならば平穏な時代が流れ、暴君ならば混乱をきわめた。10代王の燕山君(ヨンサングン)は最悪の暴君であり、朝鮮王朝がもっとも血に染まった時代だ。
燕山君を嫌う臣下たち
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1494年、惜しまれながら9代王の成宗(ソンジョン)がこの世を去った。次の王に就いたのは、斉献王后が産んだ王子で18歳だった。この王が10代王の燕山君(ヨンサングン)である。
少年時代の燕山君
燕山君は幼くして母を失…
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成人して親政を始めた9代王の成宗(ソンジョン)は、王権を自分の手に戻すため奮闘した。そんな彼の初めての仕事は、王になる前に亡くなった父の懿敬(ウィギョン)に王の尊号を贈ることだった。
本格的な王道政治
「父上は若くし…
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1468年に7代王・世祖(セジョ)が世を去り、二男が王位を継いだ。それが8代王の睿宗(イェジョン)である。しかし、わずか19歳で亡くなり、朝鮮王朝の王位継承問題は混迷した。
徐々に体調が悪化
世祖の長男は19…
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1450年に名君の世宗(セジョン)が世を去り、長男の文宗(ムンジョン)が5代王として即位した。文宗は世宗の政治を上手く引き継ぎ安定した政治を行なう。しかし、その治世はわずか2年と短かった。病弱すぎたのである。
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朝鮮王朝で最高の名君と称賛される4代王・世宗(セジョン)。彼がそれほど尊敬されているのは、民族固有の文字「ハングル」を作ったからだ。それは本来「訓民正音(フンミンジョンウム)」と呼ばれたが、1443年に完成している。
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3代王の太宗(テジョン)は1400年から1418年まで約18年間王位に就いたが、その間に4回も譲位(国王が王位を譲ること)騒動を起こした。これには、自身が王権を巡って血で血を洗う争いをしたことに対する自戒の念もあった。
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高麗王朝の最高実力者になった李成桂(イ・ソンゲ)は王を追放し、自分の都合のいいように動く恭譲王(コンヤンワン)を王位につけた。しかし、黒幕でいることよりも自ら王になりたいと思い、1392年に即位した。初代王の太祖(テジョ…
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