カテゴリー:王妃

  • 中宗が離縁した端敬王后の悲しき人生!

    端敬(タンギョン)王后はどんな女性だったのか。 生没年/1487~1557年 夫/11代王・中宗(チュンジョン)と1499年に結婚した 子供/いなかった 父親/慎守勤(シン・スグン)は燕山君(ヨンサングン)の側近 …
  • 仁穆王后は仁祖に光海君の斬首を主張!

    1623年3月13日の明け方、綾陽君(ヌンヤングン/後の仁祖〔インジョ〕)の統率のもとで兵力を整えたクーデター軍は、内通者の協力を得て王宮内に入り込み、重要な拠点を次々に占拠した。虚をつかれた光海君は脱兎のごとく王宮を抜…
  • 貞熹王后!思うがままに政治を操った王妃

    朝鮮王朝で初めて垂簾聴政(幼い王に代わり後見人が政治を仕切ること)を行なったのは、7代王・世祖(セジョ)の妻だった貞熹(チョンヒ)王后(1418年~1483年)である。 [caption id="attachment_…
  • 決定版!張禧嬪(チャン・ヒビン)はこんな人だったのか

    女性の容姿にほとんど触れなかった「朝鮮王朝実録」が、張禧嬪(チャン・ヒビン)だけは例外的に美しき容貌を讃えている。それほど張禧嬪は美女であったのだ。そんな張禧嬪の人生を振り返ってみよう。 粛宗の長男を出産 ◆…
  • 朝鮮王朝で王妃はどう生きたのか/第6章「滅亡」編

    英祖は、後になって思悼世子を餓死させたことをとても後悔した。せめてもの罪滅ぼしとして、思悼世子の息子の英才教育に力を入れた。それが22代王となった正祖(チョンジョ)である。 勢道政治が横行 正祖の正妻は、孝懿(…
  • 朝鮮王朝で王妃はどう生きたのか/第5章「悪女」編

    明聖(ミョンソン)王后の息子が19代王・粛宗(スクチョン)だった。ただし、明聖王后は、粛宗が正室の仁顕(イニョン)王后がいるにもかかわらず、側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)を寵愛することが不満だった。それは、張禧嬪の存在が…
  • 朝鮮王朝で王妃はどう生きたのか/第4章「政変」編

    明宗(ミョンジョン)の後を継いだ14代王・宣祖(ソンジョ)には、懿仁(ウィイン)王后という正妻がいたが、子供がいないまま1600年に45歳で亡くなった。その2年後に宣祖が迎えた継妃が仁穆(インモク)王后だった。 162…
  • 朝鮮王朝で王妃はどう生きたのか/第3章「悪政」編

    成人した成宗は数々の政治的業績を残したが、問題を起こしたのが二番目の正妻となった斉献(チェホン)王后だった。彼女は後宮を追い落とす策略を露骨にやりすぎて、成宗の信頼を失った。 暴君の悪政 成宗の顔をひっかいて傷を負わせ…
  • 朝鮮王朝で王妃はどう生きたのか/第2章「激動」編

    世宗(セジョン)の長男が5代王・文宗(ムンジョン)として即位したが、病弱によって2年で亡くなり、その息子がわずか11歳という年齢で6代王・端宗(タンジョン)となった。 孤立した幼い王 端宗の母は文宗の正妻だった顕徳(ヒ…
  • 朝鮮王朝で王妃はどう生きたのか/第1章「建国」編

    李成桂(イ・ソンゲ)は1392年に朝鮮王朝を開いて、初代王・太祖(テジョ)となった。太祖の最初の妻は、神懿(シヌィ)王后で、夫婦には息子が6人いた。上から芳雨(バンウ)、芳果(バングァ)、芳毅(バンイ)、芳幹(バンガン)…

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