甥の端宗(タンジョン)から王位を強奪して7代王の世祖(セジョ)が即位した。しかし、非道な王位継承に多くの臣下たちが反対した。その中心人物の成三問(ソン・サムムン)たちは、昌徳宮(チャンドックン)で開催される宴席の場で世祖を暗殺する計画を進めた。しかし、計画は失敗し、成三問たちは捕らえられてしまう。
端宗の復位計画
1455年、王位に就いた世祖は、協力してくれた者を功臣として厚遇し、非協力的な者は冷遇した。
世祖の強引なやり方は多くの反感を買った。意を決した彼らは、成三問(ソン・サムムン)を中心に端宗を復位させる計画を練った。
成三問は世祖とその一派を確実に倒せる機会をうかがっていた。決行予定は1456年10月。明の使者が訪問するときで、世祖主催の宴会が開かれることになっていた。世祖とその一派たちをまとめて粛清するには絶好の機会だった。
成三問は、宴の中で唯一帯刀が許される護衛役に自分の同志を送りこみ、その場で世祖を切りつけるという計画を立てた。
しかし、世祖の側近の韓明澮(ハン・ミョンフェ)は、不穏な動きを察していた。彼は世祖に直訴し、護衛役を参加させないことを進言。成三問は焦り、強く反対した。
相反する2人の意見を受けた世祖は結局、韓明澮の意見を取り入れた。こうして、完璧なはずだった計画は暗礁に乗り上げ、動揺した同志たちの中で、「計画を続行するか否か」で意見が対立した。
決断を迫られた成三問は、計画の延期を決定する。成三問にとって端宗の復位は、失敗が許されない大義だったからだ。しかし同志の間に不安感が広がり、臆病風に吹かれた1人が、世祖に計画をばらしてしまう。
こうして、端宗復位を志した者は、一網打尽にされてしまった。
捕えられた者の多くは、朝鮮王朝の重役を担う有能な人材ばかりだった。
成三問は反乱を企てた重罪人であり、重い処分を受けるのが必然だった。しかし、世祖は彼の才能を惜しみ、共謀者の存在を明らかにして自身を王と認めるなら罪を許すと持ちかけた。
しかし、成三問は絶対に口を割ることはなかった。
世祖は、自分に忠義を見せない成三問が憎らしくなり、自分の臣下として禄(ろく/給料のこと)をもらっている事実を責めた。
しかし、成三問は世祖からの禄にはいっさい手を付けていなかった。彼の家は布団すら満足にない貧しさで、世祖から貰った禄は受け取った日と額が記入されただけで、少しも減っていなかった。
さらに成三問は、世祖を「ナウリ」と呼んで蔑んだ。「ナウリ」とは「旦那さん」という意味で、王に対して使う言葉ではなかった。怒り狂った世祖は、成三問を懐柔することを諦め、残酷な拷問の末に殺害した。
世祖は、他の者たちも同じように懐柔しようとしたが、だれもが世祖の王位強奪を非難した。その末に、彼らは命を断たれてしまった。
成三問を筆頭にした6人は、命を賭して最期まで忠義を守った。そのことを讃えられ、後に「死六臣(サユクシン)」と呼ばれるようになった。