朝鮮王朝の16代王・仁祖(インジョ)は、わかりづらい人物である。まるで二つの人生を歩んだかのように、成功と失敗が極端に分かれている。果たして、仁祖の歯車はどこでおかしくなってしまったのか。
光海君の甥
光海君(クァンヘグン)は王位を守る過程で兄弟たちを殺している。「非道な国王」と言われても仕方がないが、政治指導者として果敢な実行力を見せている。豊臣軍の攻撃で荒廃した国土の復興、納税制度の改善(結果的に庶民の税負担が軽減された)、王宮の再建、国防の強化、異民族との巧みな外交展開などで一定の成果をあげている。
しかし、光海君に怨みを持つ人たちにとって、政治的成果が免罪符になるわけではなかった。彼らは報復となるクーデターの機会を狙っていた。その中心人物となったのが綾陽君(ヌンヤングン)だった。彼は光海君の甥にあたる人物だが、弟を光海君の一派に殺されている。
強い怨みを抱いた綾陽君はクーデターを決意した。
彼が同志をつのると、光海君に怨みを持つ者が次々と集まった。
1623年3月13日の明け方、綾陽君の統率のもとで兵力を整えたクーデター軍は、内通者の協力を得て王宮内に入り込み、重要な拠点を次々と占拠した。本来なら激しく抵抗するはずの護衛兵たちもクーデター軍に刃を向けなかった。そういう意味では、クーデター軍の最大の味方は、光海君に対する官僚や兵士たちの怨嗟(えんさ)だったと言えるだろう。
光海君を追放した綾陽君は16代王・仁祖(インジョ)として即位した。
仁祖は、クーデターを成功させるまでは、卓越した戦略性と優れた統率力を持っていた。だからこそ、光海君をあれほどあっさりと追放することができたのだ。しかし、王位に上がったあとは、凡庸さばかりが目立つようになった。即位した翌年の1624年には、同志だった家臣が反乱を起こしたが、それも仁祖が信頼を示していれば防げる出来事だった。
また、1627年には北方の異民族国家だった後金の侵攻を許したが(和睦が成立している)、これも国防があまりにおろそかになり、その隙を後金に突かれた結果だった。
当時の朝鮮王朝は、中国大陸の明を崇め、新興勢力の後金を“辺境の蛮族”として蔑(さげす)んでいた。これが後金の怒りを買った。この国は清と名を変えて、1636年12月に怒濤の大軍で再び朝鮮半島に攻めてきた。その圧倒的な軍事力に対抗することができず、朝鮮王朝は屈伏し、仁祖は漢江(ハンガン)のほとりの三田渡(サムジョンド)で清の皇帝にひざまずいて謝罪している。
これほどの屈辱を受けた王は、朝鮮王朝では他にいなかったのではないか。しかも、仁祖の息子3人は人質として清に連れていかれてしまった。
都の人々は「王があまりに情けないから、我々の生活はどん底になるんだ」と仁祖を無能呼ばわりした。
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