「王妃たちの朝鮮王朝5」

王妃となった張禧嬪

明聖(ミョンソン)王后の息子が19代王・粛宗(スクチョン)だった。ただし、明聖王后は、粛宗が正室の仁顕(イニョン)王后がいるにもかかわらず、側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)を寵愛することが不満だった。それは、張禧嬪の存在が粛宗の王位を危うくするとにらんでいたからだ。
1688年、まだ側室だった張禧嬪は粛宗の長男を産んだ。すると、粛宗は仁顕王后を廃妃にして庶民の反感を買った。
結果的に、張禧嬪はまんまと王妃の座を手にした。
ただし、張禧嬪の安泰は続かなかった。時間とともに心変わりした粛宗は、今度は淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏を寵愛するようになり、彼女との間に男子をもうけた。その子が後の21代王・英祖(ヨンジョ)である。
その後、政変が起きて張禧嬪の後ろ楯となっていた勢力が力を失うと、粛宗は張禧嬪の廃妃と仁顕王后の復位を決めた。淑嬪・崔氏は側室のままだったが、彼女は低い身分の出身なので王妃になるのは難しかった。
仁顕王后は1701年に34歳で世を去った。その後に、淑嬪・崔氏の証言によって、張禧嬪が仁顕王后の死を願って魔術的な祈祷を繰り返していたことが明らかになった。激怒した粛宗は張禧嬪を死罪に処した。この出来事によって張禧嬪の悪名は決定的になってしまった。
(ページ2に続く)

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