中宗が離縁した端敬王后の悲しき人生!

端敬(タンギョン)王后はどんな女性だったのか。
生没年/1487~1557年
夫/11代王・中宗(チュンジョン)と1499年に結婚した
子供/いなかった
父親/慎守勤(シン・スグン)は燕山君(ヨンサングン)の側近





端敬王后の親族は?

『七日の王妃』の主人公になっていた端敬(タンギョン)王后。11代王・中宗(チュンジョン)の最初の正室だった女性だ。
彼女が中宗から離縁させられたのは1506年のことだった。
きっかけは、暴君として悪評がひどかった燕山君(ヨンサングン)が、クーデターで王宮を追放されたことだ。
廃位となった燕山君に代わって王になったのが異母弟の中宗だった。それにともなって、中宗の最愛の妻だった端敬王后は、朝鮮王朝の「国母」とも称された王妃になった。
しかし、王妃の座にあったのは、わずか7日間だった。
なぜ、それほど短かったのか。
実は、クーデターを成功させた高官たちは、中宗に仰天な要求を突きつけてきた。
「中宮(チュングン/王妃のこと)と離縁してください」




とんでもない要求だ。
もちろん、中宗はきっぱり断れば良かった。絶対権力者の国王なのだから……。
しかし、彼にはできない事情があった。
何よりも、高官たちが執拗に離縁を迫ったのには理由があった。
端敬王后の父親が燕山君の一番の側近だったのだ。さらに、燕山君の妻は端敬王后の叔母だった。
端敬王后の身内には燕山君と深い関係の人が多かった。
高官たちは、燕山君一派の残党たちが端敬王后をかついで復讐をしかけてくることを極度に警戒した。
つまり、端敬王后が王妃の座にいると困るのだ。
当初は拒絶していた中宗だったが、それも長続きしなかった。
彼はクーデターを成功させた高官たちに、からっきし頭が上がらなかった。
ついに、中宗は高官たちの要求を呑まざるをえなくなってしまった。
それほど、中宗は初志貫徹ができない王であった。




端敬王后が王宮を去ったあと、中宗は悲しみにくれて、王宮の高い場所にひんぱんに上がっていった。
それは、端敬王后が住むあたりをながめるためだった。
そのことが都で話題になった。
端敬王后も中宗の嘆きを噂で知った。
端敬王后は、家の裏の岩山に、かつて自分が身につけていた赤いチマ(スカート)を干した。
それは、元気に暮らしていることを中宗に知らせるためだった。
この逸話は「赤いチマ岩の伝説」と呼ばれ、韓国でも夫婦愛をあらわす際によく使われている。
中宗が端敬王后を離縁したのは1506年で、それから38年後の1544年に中宗は危篤に陥った。
このとき、端敬王后は中宗を見舞おうとしたのだが、結局はそれができなかった。つまり、2人は1506年以降、一度も会うことができなかったのだ。
端敬王后が亡くなったのは1557年である。
享年70歳だった。
離縁させられたときが19歳だったので、その後は元王妃として51年も過ごしたのだ。「7日間」と比べると、とてつもなく長い歳月だ。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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