光海君は1608年に15代王として即位したが、翌年に兄の臨海君(イメグン)を不穏分子として配流の末に殺し、1614年には異母弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)の命も奪った。さらに、永昌大君の母の仁穆(インモク)王后も大妃の身分を剥奪されて長く幽閉生活を送らざるをえなくなった。
大義名分が必要
光海君は、朝鮮出兵で疲弊した国土の復興、国防の強化、巧みな外交などで多くの成果を出した王だが、長幼の序を尊ぶ儒教においては義母を処罰した行為が強く非難された。なにしろ、光海君は王としては優秀だったのだが、長年にわたる王位争いで恐怖心を強く持っていた。
その結果が、臨海君と永昌大君の殺害、仁穆王后の幽閉となった。
さらに甥である綾昌君(ヌンチャングン)についても、彼を王にさせようとする動きを察して、反乱の罪を着せて殺してしまった。
綾昌君の兄の綾陽君(ヌンヤングン)は、光海君への復讐心を燃やす。彼は同志を募り、光海君を廃位にする計画を練った。
1623年3月、綾陽君の指揮のもと、ついにクーデターが勃発した。事前準備を徹底した彼らは、内通者を通じて重要施設を次々と制圧。綾陽君の強襲を受けた光海君は、すぐに逃げたが、ついに捕らわれてしまった。
しかし、暴君だった燕山君(ヨンサングン)と違い、光海君は暴政を行なっていたわけではなかった。
それゆえに、クーデターには大義名分が必要だった。
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