王妃たちが国母であった時代「第1回」

李成桂(イ・ソンゲ)は1392年に朝鮮王朝を開いて、初代王・太祖(テジョ)となった。太祖の最初の妻は、神懿(シヌィ)王后で、夫婦には息子が6人いた。上から芳雨(バンウ)、芳果(バングァ)、芳毅(バンイ)、芳幹(バンガン)、芳遠(バンウォン)、芳衍(バンヨン)だった。

10歳の世子

朝鮮王朝の前の高麗王朝では、夫が複数の妻をめとることが認められていて、太祖には第二夫人の神徳(シンドク)王后がいて、2人の間には七男の芳蕃(バンボン)と八男の芳碩(バンソク)が生まれていた。
1391年、太祖が朝鮮王朝を創設する前年に神懿王后は54歳で亡くなった。こうなると、太祖はよけいに神徳王后を寵愛するようになり、八男の芳碩を世子(セジャ/王の後継者)に指名した。
そのとき、芳碩はわずか10歳にすぎなかったのだが、神徳王后の強い要望がかなった結果だった。




この決定は、朝鮮王朝を混乱させた。太祖の後継者にふさわしいのは実力者だった五男の芳遠と思われていたからだ。この過程で神徳王后と芳遠の対立は決定的になってしまった。
(ページ2に続く)

王妃たちが国母であった時代「第2回」

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