王妃たちが国母であった時代「第4回」

明宗(ミョンジョン)の後を継いだ14代王・宣祖(ソンジョ)には、懿仁(ウィイン)王后という正妻がいたが、子供がいないまま1600年に45歳で亡くなった。その2年後に宣祖が迎えた継妃が仁穆(インモク)王后だった。

1623年のクーデター

仁穆王后は1606年に永昌(ヨンチャン)大君を産んだ。宣祖の正妻から生まれた初めての息子だった。しかし、すでに世子には宣祖の後宮が産んだ光海君(クァンヘグン)に決まっていた。
1608年に宣祖は世を去り、光海君が15代王となった。彼は永昌大君が将来王位を狙う可能性があると見なし、まず、偽りの罪をかぶせて仁穆王后の父を殺し、彼女の実家を滅ぼした。
さらに、永昌大君を庶民に格下げして流罪にしたうえで焼死させてしまった。




それだけではなかった。光海君は憔悴(しょうすい)した仁穆王后を幽閉して廃妃にした。彼女は奈落の底に落ちたが、1623年に朗報がもたらされた。宣祖の孫がクーデターを起こして光海君を追放し、16代王・仁祖(インジョ)として即位したのだ。これによって、仁穆王后と亡き永昌の名誉は回復された。
(ページ2に続く)

王妃たちが国母であった時代「第1回」

王妃たちが国母であった時代「第2回」

王妃たちが国母であった時代「第3回」

王妃たちが国母であった時代「第5回」

王妃たちが国母であった時代「第6回」




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