王妃たちが国母であった時代「第2回」

世宗(セジョン)の長男が5代王・文宗(ムンジョン)として即位したが、病弱によって2年で亡くなり、その息子がわずか11歳で6代王・端宗(タンジョン)となった。




孤立した幼い王

世宗(セジョン)の長男が5代王・文宗(ムンジョン)として即位したが、病弱によって2年で亡くなり、その息子がわずか11歳で6代王・端宗(タンジョン)となった。
端宗の母は文宗の正妻だった顕徳(ヒョンドク)王后だったが、彼女は端宗を産んだ直後に世を去っていた。
つまり、王となった端宗には父も母もいなかったのだ。
そこにつけこんだのが、世宗の二男だった首陽(スヤン)大君だった。彼は端宗の後見人だった高官の金宗瑞(キム・ジョンソ)を1453年に殺害し、さらに忠臣たちの命を次々に奪っていった。
端宗は孤立し、首陽に脅(おど)かされる形で王位を譲らざるをえなくなった。こうして首陽は1455年に即位して7代王・世祖(セジョ)となった。
世祖の正妻は、貞熹(チョンヒ)王后である。彼女は勝ち気な女性で、首陽が政変を起こす直前に躊躇したとき、迷う彼に鎧を着せて送り出している。その政変が成功したことで、貞熹王后・尹氏は王妃にまでのぼりつめた。




しかし、この夫婦を不幸が襲う。長男の懿敬(ウィギョン)がわずか19歳の若さで1457年に亡くなったのだ。
世祖と貞熹王后の悲しみはあまりに深かった。
(ページ2に続く)

王妃たちが国母であった時代「第1回」

王妃たちが国母であった時代「第3回」

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王妃たちが国母であった時代「第6回」




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