朝鮮王朝の一番の弊害と言われたのが「党争」ですが、中でも「党争の元凶」と称されたのが宋時烈(ソン・シヨル/1607~1689年)です。彼が高官だった17世紀後半は朝鮮王朝でも一番党争が激しい時期でした。
論争となった服喪問題
17世紀の後半、各党派は儒教的な倫理観を持ち出して、敵対派閥と激しい論争を繰り返しました。
特に主要派閥の間でもめたのが、1659年に17代王・孝宗(ヒョジョン)が世を去ったときの服喪問題でした。
それは、孝宗の継母だった荘烈(チャンニョル)王后(孝宗の父となる16代王・仁祖〔インジョ〕の二番目の正妻)が、喪服を着る期間が1年なのか3年なのか、という論争でした。
血がつながっていないとはいえ、荘烈王后にしてみれば王であった息子が亡くなったのです。この場合、孝宗が仁祖の長男であればすぐに3年で決まりなのですが、次男であったことが問題を複雑にしました。
なんといっても、次男が王になって亡くなった場合、継母が服喪する期間の前例がなかったのです。
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