清の人質となった昭顕世子はどうなった?(歴史編)

1637年1月、朝鮮王朝は大軍で攻めてきた清に敗北し、16代王・仁祖(インジョ)は清の皇帝の前で土下座のように謝罪した。史上最悪の屈辱で、以後も朝鮮王朝は清に服従を強いられた。





人質となった王子たち

朝鮮王朝は清に莫大な賠償金を取られた。そればかりではなく、仁祖の3人の息子が清の人質となって瀋陽(しんよう)に送られた。
三男はすぐに帰国させてもらえたが、長男の昭顕(ソヒョン)世子と二男の鳳林(ポンニム)大君は長く人質生活を送らなければならなかった。
昭顕世子は妻の姜氏(カンシ)と一緒だった。
2人は軟禁生活を強いられたとはいえ、一応は朝鮮王朝の世継ぎ夫婦として遇され、相応の生活を享受することができた。
清で見聞した先進の文明が昭顕世子には刺激的に見えた。
それは、極端な儒教思想で凝り固まった朝鮮王朝と比べると、はるかに魅力的な世界だった。
そうした文化にじかに接しながら、昭顕世子と姜氏は今までにない新しい価値観を身につけていった。




さらに、昭顕世子が驚いたのが、キリスト教の宣教師たちを通して知った西洋の文明だった。
たとえば天文学ひとつをとっても、西洋の文明には朝鮮王朝にないものがたくさんあった。その知識を広めていきながら、昭顕世子は自らの学問を深めていった。
つまり、昭顕世子の人質生活は世界の趨勢(すうせい)を知るうえで、またとない機会になったのだ。
しかし、鳳林大君は違った。彼は人質となった屈辱から、清を憎む気持ちがますます強くなっていった。
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