英祖との間に大きな確執を持った世子/朝鮮王朝の人物と歴史14

朝鮮王朝21代王・英祖(ヨンジョ)の息子として生まれた荘献(チャンホン)。彼は世子(セジャ=王の後継者)の立場でありながら、父親の英祖によって餓死させられてしまう。悲劇的な最期を迎える世子の謎に迫る。

思悼世子を題材にした映画『思悼』のポスター。日本でも9月頃に『王の運命』として公開予定

思悼世子を題材にした映画『思悼』のポスター。日本では『王の運命-歴史を変えた八日間-』として放送された




2大政党による終わることなき党争

19代王・粛宗(スクチョン)は正室から男子が産まれなかったため、側室だった張禧嬪(チャン・ヒビン)から産まれた子を次の王に指名した。しかし、張禧嬪は後に罪を犯して死罪となってしまう。こうなると、臣下の中から張禧嬪の子を王にすることに反対する者が多く出た。彼らが次の王に擁立したのが、別の側室である淑嬪崔氏(スクビン・チェシ)から生まれた子だった。
こうして、宮中では張禧嬪の子を王に推薦する少論派(ソロンパ)と、淑嬪崔氏の子を擁立する老論派(ノロンパ)にわかれて真っ向から対立する。
それは、粛宗が亡くなり、張禧嬪の子が20代王・景宗(キョンジョン)として即位しても変わらなかった。
そんな状況が一変したのが1724年である。なんと、景宗が在位4年で亡くなり、淑嬪崔氏の子が21代王・英祖として即位したのだ。
宮中では少論派が権力を牛耳ると思われたが、英祖は両派閥から平等に人材を登用する政策を前面に押し出した。しかし、両派閥の溝は想像以上に深く、その影響は英祖と彼の息子の運命を狂わせる……。




党派争いを終わらせた名君・英祖にも悩みがあった。多くの王が頭を痛めてきた後継者問題である。
英祖には正室がいたのだが、彼女は子供を産むことができず、1719年に側室から生まれた念願の男子・孝章(ヒョジャン)も、わずか9歳で亡くなってしまった。
ようやく二男が生まれたのは1735年だった。側室の映嬪李氏(ヨンビン・イシ)が念願の息子・荘献(チャンホン)を産んだのである。1歳で世子に指名された彼は、学問に励んだ。さらに、詩作や書道で才能を発揮するなど、幼いころから聡明であり、9歳になると老論派の重鎮である洪鳳漢(ホン・ボンハン)の娘を妻として迎えた。
しかし、荘献には自分の才能におぼれすぎるところがあった。さらに、老論派重鎮の娘と結婚していながら、少論派を支持していたのも問題だった。荘献は政権内部で警戒されるようになったのだ。さらに14歳のころには英祖から政治の一部を任されるが、老論派の重臣たちは、荘献の悪評を英祖に伝えて邪魔をしたのである。
そういった悪い噂を聞くたびに、英祖は荘献を呼び出して叱責するが、それが原因で親子関係に亀裂が入ってしまう。しかし、荘献もまったく反省をしていないわけではない。自分の立場を自覚した荘献は、反省文を書いて承政院(スンジョンウォン/王命の出納を担当する役所)に出した。




その反省文には、今まで自分が至らなかったと後悔していることや、自らを戒めて過ちを正していくことが書かれていた。英祖は荘献の改心をとても喜んだ。誰もが父子の関係は回復したように思った……。
(ページ2に続く)

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