王の顔に傷をつけた王妃/朝鮮王朝の人物と歴史25

仁粋大妃の策略

実家に戻った尹氏は、自分が犯した罪を深く反省して質素に暮らしていた。彼女が王宮を追い出されてから3年後の1482年、成宗は「尹氏が反省しているようなら王宮に戻してあげよう」と思い、宮中でも尹氏に同情する者たちが出始めた。こうして、尹氏が王宮に戻れる可能性が出てきた。
成宗の命令を受けて、尹氏のもとを訪れた使者は、彼女がしっかりと反省して謹慎生活を送っているのを確認した。使者は、そのとおりに報告しようと思ったが、成宗のもとへ戻る途中で仁粋大妃に呼び止められて、こう言われた。
「尹氏はまったく反省しておらず。傲慢な暮らしをしていたと報告しろ」
仁粋大妃にそのように脅された使者のもとに、尹氏と敵対していた側室の厳氏と鄭氏が現れて、使者を金銀で買収した。実際には尹氏がしっかりと反省している様子を見た使者なのだが、成宗にありもしない事実を報告してしまう。それを聞いた成宗は当然のように激怒して、尹氏を死罪にした。




尹氏が廃妃として死罪になったことは、世子にも影響を及ぼした。高官たちは「廃妃の息子を次の王にしてはいけません」と反対意見を出した。しかし、成宗は息子が長男であることを重視したため、世子が1494年に10代王・燕山君となった。彼は母親が死罪になったことを知らないまま育っていた。なぜなら、父親の成宗が「尹氏の死について言ってはならない」と宮中で口止めしていたからだ。
それにもかかわらず、出世を望んでいた奸臣が燕山君にすべて話してしまう。本当のことを知った彼は激怒し、母親の死に関わった者たちを次々に殺害していった。もちろん、その中には成宗の側室だった厳氏と鄭氏もいた。
そんな虐殺事件を起こして母の仇を討った彼は、庶民に落とされた尹氏の身分を回復し、立派なお墓を用意した。
しかし、1506年は燕山君がクーデターで王宮を追われて江華島(カンファド)に流された。彼が30歳で世を去ると、尹氏の身分は再び庶民となり、お墓も粗末なものになってしまった。




尹氏の人生は惨めなものではあったが、その原因となったのは彼女の嫉妬心である。自業自得と言わざるを得ないかもしれない。

文=康 大地(コウ ダイチ)

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