王の顔に傷をつけた王妃/朝鮮王朝の人物と歴史25

廃妃(ペビ)・尹(ユン)氏は、10代王・燕山君(ヨンサングン)の母親である。しかし、王である成宗(ソンジョン)に対して大変な無礼を働いてしまった彼女は、王宮を追い出されてしまう。

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嫉妬深い性格

尹氏は当初は側室だったが、1474年に成宗の最初の正室である恭恵(コンヘ)王后が18歳で早世したことにより、二番目の正室として迎えられた。しかし、彼女は、育ちの貧しさと野心的なことを理由に、成宗の母親の仁粋(インス)大妃から嫌われていた。さらに、仁粋大妃は「恭恵王后が亡くなったのは尹氏のせいだ」と思いこんでいて、彼女のことをとても憎んでいた。それには次のような理由がある。
仁粋大妃は、恭恵王后をとても可愛がっていたが、成宗は美貌の持ち主である尹氏だけを寵愛した。それが原因で、恭恵王后は精神を病んでしまったのだ。まさに仁粋大妃と尹氏の仲は最悪だった。
王妃となった尹氏は、1476年に成宗との間に生まれた息子は、成宗の後継者として世子(セジャ)に指名された。すると、彼女の嫉妬深い性格が表に出てきて、側室に強い警戒心を抱くようになった。その一方で、成宗は、側室の厳(オム)氏と鄭(チョン)氏のところへ通うようになってしまい、王妃のもとを訪れなくなった。




側室の2人は尹氏のことを嫌っていて、彼女の悪口を成宗の母親である仁粋大妃に言った。ここに王をめぐる女同士の争いが勃発した。
1477年、実の母親の力を借りた尹氏は、「厳氏と鄭氏が自分と息子を殺害しようとしている」というあらぬ噂を立てた。それが宮中に広まって大騒ぎとなったが、結局は、厳氏と鄭氏を陥れるための策略であることがばれてしまう。
さらに尹氏の部屋からは、毒殺によく使われる砒素(ひそ)と呪詛(じゅそ)の本が見つかった。それにより、尹氏は成宗から信用を失った。呪詛を行なうことは大罪とされていたため、成宗は尹氏を王妃から庶民に格下げしようするが、臣下たちから猛烈に反対を受けた。今までにそういう前例がなかったからだ。結果的に尹氏は不問となったが、彼女の母親は王宮への出入りを禁じられた。
しばらく時間が経ち、成宗は尹氏のことを気に掛けるようになり、彼女のもとを久し振りに訪れた。しかし、王はまだ厳氏と鄭氏のもとへ通っていた。そのことを知っていた彼女は成宗の顔を引っ掻いてしまう。尹氏からしてみれば、成宗との仲を戻すための絶好の機会だったのだが……。




王の顔に傷をつけるという罪を犯した尹氏は、そのことに激怒した仁粋大妃によって王宮を追い出されて、1479年に廃妃となった。
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