『七日の王妃』の端敬(タンギョン)王后と中宗(チュンジョン)の「別れる理由」とは?

燕山君(ヨンサングン)を廃位にするためのクーデターは1506年に起こりました。主導した高官たちには、大義名分が必要でした。いくらひどい王でも追放するとなると、大義名分が重要なのです。そこでクーデター軍がかつぎあげたのが、燕山君の異母弟の晋城大君(チンソンデグン)でした。

自立性に乏しい王

晋城大君は、異母兄の燕山君から相当にいじめられていました。
晋城大君の協力をとりつけようとしてクーデター軍が彼の屋敷に行ったところ、本人は「兄がついに殺しにきた」と早とちりして自決しようとしました。妻が必死に止めた結果、何とか事なきを得ました。
晋城大君はクーデターに反対しました。




「兄を追放して王になれば、世間からなんと言われるかわからない」
そう言って晋城大君は即位することを拒否します。
それでも説得されて最後にようやく承諾し、クーデターの成功後に彼は11代王・中宗(チュンジョン)になります。
王宮を追われた燕山君は島流しとなり、わずか2カ月で病死してしまいます。
あまりにあっけない死。果たして何があったのでしょうか。一応は病死と伝えられていますが……。
一方、中宗は周囲にかつがれて王になったので、クーデターを成功させた人たちに頭があがりません。
結果的に、自立性に乏しい王でした。
高官たちは中宗に対して、「妻の端敬(タンギョン)王后を離縁してほしい」と迫ります。
理由は、端敬王后が燕山君の妻の姪であり、父親も燕山君の側近だったからです。このように、端敬王后の親戚には燕山君と関係が深い人が多かったのです。




中宗は承服できません。
「勘違いして自決しようとしたときに助けてくれた愛妻と、なぜ別れなければいけないのか」
そんな心境だったことでしょう。
中宗は国王なのですから、臣下が何を言ってきてもつっぱねればよかったのです。ところが、中宗は気が弱いというかはっきりしない性格で、最後は端敬王后の廃妃に同意してしまいます。
それでも中宗はメソメソするばかりです。
王宮の高い場所に立ち、端敬王后が住むあたりを見ては、ため息をついていました。そのことが都で噂になり、端敬王后の耳にも入ります。
(ページ2に続く)

『七日の王妃』の端敬(タンギョン)王后はどんな女性だったのか

中宗(チュンジョン)はどのようにして即位したのか

中宗(チュンジョン)はあまりに優柔不断すぎる王だった!

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