捕虜になった屈辱
停戦が破棄され、1597年に再び戦火が起こった。この戦いで王朝軍は、海戦で敗北を繰り返した。
それは、李舜臣の活躍を妬んだ奸臣のたくらみで、彼が無実の罪で投獄されていたからだった。
しかし、敗戦が続く水軍を見た宣祖は李舜臣を再び指揮官に呼び戻した。
「勝手な頼みなのはわかっているが、国のことを思う気持ちがあるのなら、もう一度水軍の指揮を取ってくれ」
意気に感じた李舜臣は不眠不休で水軍を立て直し、戦況を一変させた。
1598年8月に豊臣秀吉が世を去り、戦火はやんだ。6年に及んだ戦争は、両国に憎悪だけを残した。
一方、先の戦争で豊臣軍の捕虜になってしまった臨海君(イメグン)。彼は王の長男として一目置かれていたが、捕虜になったことは痛恨の出来事だった。
臨海君は一旦停戦になったときに釈放されるが、捕虜になった屈辱から生活が乱れてしまった。都に戻ってからは酒に溺れ、宮中でも様々な問題を起こし、後継者としての立場を悪くしてしまった。
代わって、名をあげていったのが弟の光海君(クァンヘグン)だった。
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