悠久の日韓古代史・第1話「海を渡る人々」

三国時代

衛満朝鮮が紀元前108年に滅んで、漢が朝鮮半島北部に四郡の直轄地を置いたが、局地的な統治であって広い地域を支配下に置いたわけではない。
満州(現在の中国東北部)では扶余(プヨ)国が強くなり、同系の勢力から高句麗(コグリョ)が建国された。
朝鮮半島の中央部から南部にかけては、各部族が集まっていくつかの連合体ができていた。まだ国家と言える規模ではないが、一応は馬韓(マハン)、弁韓(ピョナン)、辰韓(チナン)と称した。
部族が何度も離合集散を繰り返しているうちに、強い部族が中心になって少しずつ国家と呼べる政治組織に集約されていった。辰韓の1つだった斯盧(サロ)が強大になって新羅(シルラ)が誕生し、馬韓の中で伯済(ペクチェ)が主導権を握って百済(ペクチェ)が生まれ、弁韓も伽耶(カヤ)に発展していく。
こうして朝鮮半島の勢力図がはっきりしてきた。




朝鮮半島北部から満州にかけて領土を大いに広げた高句麗、朝鮮半島の南西部という肥沃地帯に恵まれた百済、日本に近い朝鮮半島南東部を統治した新羅。3つの国家は国境を接しながら激しく争って三国時代を形成した。
さらに……。
三国に準じたのが伽耶であった。朝鮮半島南部の洛東江(ナクトンガン)沿岸地域に広がっていた。
この伽耶は日本と関係が深かった。
日本では、3世紀から4世紀にかけて近畿に強い政治勢力があった。
それは今では「ヤマト政権」と呼称されている。
そのヤマト政権は鉄を使うことで自らの勢力を拡大していった。しかし、当時の日本では鉄製品をつくりだす技術がなかった。
ならば、どこから鉄を手に入れていたか。
頼ったのが伽耶だった。
伽耶の中心地域と目される洛東江の下流域では、近年になって発掘調査が急ピッチで進んだ。




その結果、伽耶では豊富に鉄製品がつくられていたことが立証された。
先進の製鉄技術を持っていた伽耶だが、中央集権体制を築くには至らず、部族の連合体のような政治形態を取っていた。
高句麗がしきりに南下してきて伽耶は強い圧迫を受けた。
伽耶は、鉄の鎧や兜など強固な武具を持っていた。
しかし、人手だけが足りなかった。
つまり、鉄の鎧や兜はあっても、それを使う人が不足していたのだ。そこで頼ったのが日本だった。
こうして、ヤマト政権と伽耶はお互いに足りないものを補いあった。ヤマト政権は鉄を、伽耶は人手を……。
日本から伽耶に向かった人々は兵力となって高句麗と戦った。
ヤマト政権にとっても、伽耶が高句麗に滅ぼされると死活問題だった。鉄を失うことになるからだ。
それを防ぐためにも、日本から伽耶に行った人々も必死に戦ったことだろう。
(次回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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