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悠久の日韓古代史・第29回「植民地統治の後期」
思想的に朝鮮民衆を日本に同化させる政策も大々的に進められた。1925年10月15日には、京城(ソウル)に朝鮮神宮が竣工した。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と明治天皇だった。 独立運動 朝鮮総督府が朝鮮… -
悠久の日韓古代史・第28回「植民地統治の前期」
1910年に日本の植民地になった後の朝鮮半島はどうなったのか。朝鮮総督府は天皇に直属し、日本の内閣からも独立した存在として朝鮮半島における立法・行政・軍事の権力を一手に握っていた。 土地調査事業 日本の植民地… -
悠久の日韓古代史・第27回「日韓併合」
日本と清は1885年4月に天津条約を結んだ。この条約では、「朝鮮半島から日本と清の両国軍隊が撤退すること」「朝鮮半島に再び兵を出すときは相互通告すること」が取り決められた。その年の夏に、興宣大院君(フンソンデウォングン)… -
悠久の日韓古代史・第26回「政変に揺れる朝鮮王朝」
1863年、朝鮮王朝で26代王の高宗(コジョン)が即位した。彼はまだ11歳だったので、父の興宣大院君(フンソンデウォングン)が執権となって、実際の政治を動かすようになった。 開国を迫る日本 1865年、興宣大… -
悠久の日韓古代史・第25回「善隣関係の終焉」
朝鮮通信使の招聘に消極的だった松平定信が政治の表舞台から去っても、招聘問題は進展しなかった。朝鮮王朝は徳川幕府に不信感を持ち、あえて使節を派遣しようと思わなかった。こうして空白期間は延々と続き、気がついてみれば朝鮮通信使… -
悠久の日韓古代史・第24回「途絶えた交流」
1764年に江戸時代で11回目にあたる朝鮮通信使の来日があったが、以後はまったく途絶えてしまった。そこには一体、どんな事情があったのだろうか。 松平定信の意向 徳川将軍が代わる度に幕府が対馬藩を通して朝鮮通信… -
悠久の日韓古代史・第23回「雨森芳洲と申維翰」
1607年に始まった江戸時代の朝鮮通信使。17世紀には合計で7回も朝鮮通信使が来日している。徳川幕府の創設者の家康と基盤を磐石にした家光。この2人の大物将軍が朝鮮王朝との善隣関係に力を注いだことが17世紀の両国の蜜月につ… -
悠久の日韓古代史・第22回「朝鮮通信使」
朝鮮通信使が来日した年を見てみると、順に1607年、1617年、1624年となっている。この3回の来日は、戦時中に日本に連れて来られた人々を帰国させることが主たる目的になっていて、「刷還使」という役割を担っていた。 [… -
悠久の日韓古代史・第21回「善隣関係の復活」
徳川幕府が朝鮮王朝との外交関係の再開を申し出ると、朝鮮王朝は最終的に2つの条件を対馬藩に通達した。1つは徳川家康自らが国書を提出して関係修復を願い出ることで、もう1つは、先の戦で王家の陵墓を荒らした犯人を突き出すことだっ… -
悠久の日韓古代史・第20回「国交回復の動き」
1598年11月、最後に島津軍がかろうじて対馬にたどりつき、豊臣軍は完全に日本に引き揚げてきた。7年近くにわたった戦乱の影響はあまりにも大きかった。朝鮮半島は荒廃し、多くの人命が奪われた。 窮地に陥った対馬 …