カテゴリー:国王
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朝鮮王朝は儒教を国教にしていたが、儒教の最高の徳目と言われたのが「仁」である。この漢字を諡(おくりな/死後の尊号)につけているのが12代王の仁宗(インジョン)だ。「彼ほど親孝行な王族はいない」と言われたほどの人物であった…
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王の食膳に並べられた豪華料理の数々。「食べきれないのに、なぜあんなに多くの品数を出すのだろうか」と疑問に思っていたが、あれは食べるための料理ではなかったのである。それでは何のため? 答えは「見るため」だった。
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燕山君(ヨンサングン)がクーデターで1506年に廃位となり、代わって異母弟の中宗(チュンジン)が11代王になった。彼は急に即位したが、それまで国王になるための帝王学を学んでいなかった。何の準備もなく王になってしまった中宗…
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1718年3月9日、淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏(『トンイ』の主人公)が亡くなった。彼女が世を去ったとき、息子の英祖(ヨンジョ)は24歳だった。そして、異母兄の景宗(キョンジョン/張禧嬪〔チャン・ヒビン〕の息子)は30…
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14代王の宣祖(ソンジョ)には14人もの息子がいた。しかし、正室は長く病床にあったので、息子はすべて側室から生まれた庶子であった。その中で、長男の臨海君(イメグン)と二男の光海君(クァンヘグン)が世継ぎ候補になっていた。…
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朝鮮王朝の王は、唯一無二の絶対権力者であった。どれだけの力があったのか。現代的な感覚でいうと、総理大臣、外務大臣、財務大臣、警察庁長官、最高裁長官を兼ねるほどの存在だった。
仕事は1万種類
朝鮮王朝の王は自ら政治と経…
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1735年に生まれた思悼世子(サドセジャ)は神童と呼ばれた。喜んだ父の英祖(ヨンジョ)は、思悼世子が10歳のときから政治の表舞台にデビューさせた。これがいけなかった。当時の主流派閥は老論派(ノロンパ)だったが、思悼世子は…
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『宮廷女官 チャングムの誓い』を始めとして、多くの時代劇に登場してくる中宗(チュンジョン)。この国王は、1506年から1544年まで38年間も王位に就いていたのだが、なぜ文定(ムンジョン)王后の悪行をほったらかしにしたの…
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1545年、12代王・仁宗(インジョン)が亡くなり、異母弟の明宗(ミョンジョン)が即位した。彼の母は、中宗(チュンジョン)の三番目の正室だった文定(ムンジョン)王后である。彼女が行なった悪政は息子の明宗をとことん苦しめた…
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1506年に即位した中宗(チュンジョン)は端敬(タンギョン)王后を7日間で廃妃(ペビ)にせざるをえなかったが、次に迎えた正室が章敬(チャンギョン)王后だった。彼女が産んだ中宗の長男が仁宗(インジョン)であった。
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