悪女の典型とみなされた張禧嬪(チャン・ヒビン)の激しすぎる人生!

張禧嬪(チャン・ヒビン)が19代王・粛宗(スクチョン)の側室になったとき、正室は仁顕(イニョン)王后だった。仁顕王后に早く子供ができていれば、王妃としての立場は磐石だったと思われるが、あいにく彼女は病弱で、床に伏す日が多かった。結局、粛宗は張禧嬪のもとに入り浸(びた)りとなった。





王妃への昇格

1688年、張禧嬪は王子を産んだ。27歳の粛宗にとって初めての息子だった。この瞬間から、張禧嬪は自分の息子を王にするために命をかけるようになった。
世子(セジャ/王の正式な後継者)は、正室から生まれた男子が優先される。いくら病弱でも仁顕王后はまだ若い。彼女がもし粛宗の息子を生むようなことがあれば、張禧嬪が産んだ息子は世子になれない。
張禧嬪の狙いはただ一つ……なにがなんでも正室になることだった。そのためにも、仁顕王后を廃妃にしなければならなかった。
実際、息子が生まれてから粛宗は以前よりもっと張禧嬪を寵愛したが、王の心をつかんでいるという自信が彼女を増長させた。
当時の政権は、西人(ソイン)派と南人(ナミン)派という二つの派閥が激しい権力闘争を繰り広げていた。所属をいえば、仁顕王后は西人派で張禧嬪は南人派だった。
張禧嬪にとっては、南人派が権力闘争で優勢になったことが幸いした。逆に、頼りの西人派が力を失って仁顕王后は難しい立場になった。




しかも、すでに粛宗の心は仁顕王后にはなく、彼は1689年に廃妃を決定した。寵愛する張禧嬪との間に生まれた息子を世子にするために我を押し通したのだ。
そして、空いた王妃の座に張禧嬪が昇格した。
(ページ2に続く)

張禧嬪(チャン・ヒビン)がついに王妃に成り上がった日!

張禧嬪(チャン・ヒビン)/朝鮮王朝人物紀行11

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