貞明公主は、14代王・宣祖(ソンジョ)と仁穆(インモク)王后との間に1603年に生まれた。彼女が3歳のときには弟の永昌(ヨンチャン)大君も生まれ、宣祖はとても喜んだのだが、彼は1608年に亡くなった。後を継いで即位したのは、貞明公主の異母兄であった光海君(クァンヘグン)だった。
大地主となった王女
光海君の側近たちは、光海君の兄の臨海君(イメグン)を1609年に流罪にしたうえで殺害してしまった。さらには、1614年には永昌大君も命を奪われた。
我が子を失った仁穆王后は絶望した。それは、姉の貞明公主も同じだった。
そんな2人に対して、光海君の側近たちはさらにひどい仕打ちをした。仁穆王后の大妃という資格を剥奪し、王女であった貞明公主を庶民に格下げにしたのである。さらに、2人を西宮(ソグン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉してしまった。長く苦しい監禁生活が続いた。
そんな2人の救世主となったのが、宣祖の孫であった綾陽君(ヌンヤングン)だった。彼は1623年にクーデターを成功させて、光海君を王宮から追放した。その後に綾陽君は16代王・仁祖(インジョ)として即位した。
そのとき、貞明公主は20歳になっていた。幽閉されていたために婚期が遅れた貞明公主に対して、母の仁穆王后は迅速に動いた。クーデターが成功した数日後には、早くも貞明公主の婿を選抜する行事を推進した。
しかし、婿選びは難航した。
理由は貞明公主が20歳を過ぎていたからだ。
当時、そこまで未婚でいる上流階級の女性はいなかった。しかも、王女の相手にふさわしい男性は10代の半ばまでに結婚してしまっていて、候補になる男性が見つからなかった。そんな状況の中で仁祖も全面的に協力し、高官の息子であった洪柱元(ホン・ジュウォン)がようやく選ばれた。
洪柱元は1606年に生まれている。貞明公主より3歳下だった。
その結婚に際して、貞明公主に与えられた屋敷は壮大だった。
それだけではない。
貞明公主は屋敷とは別に、地方に広大な土地も与えられた。仁祖が仁穆王后を気づかって、その娘に破格の待遇を与えたのだ。
「いつまでも、この幸せが続くように……」
仁穆王后はそう願いながら、1632年に48歳で世を去った。
文=康 熙奉(カン ヒボン)