1701年、仁顕(イニョン)王后が世を去った。長く病に苦しんだ末の死だった。仁顕王后を慕っていた淑嬪(スクピン)・崔氏(チェシ)が、すかさず粛宗(スクチョン)に告発した……それは、張禧嬪(チャン・ヒビン)が仁顕王后を呪い殺すための呪詛を行なっていた、という話だった。
張禧嬪の死罪
朝鮮王朝時代には、呪詛で人を呪い殺せると本気で信じられていた。それゆえ、呪詛は大罪になった。
粛宗は張禧嬪を厳罰に処すことを決意した。
彼は敢然と言い放った。
「王妃が病をわずらった2年間、張禧嬪は一度も見舞いにこなかった。さらには、王妃を『邪悪な人だ』と評していたというではないか。しかも、ひそかに神堂を建てて怪しげな者たちと祈祷をしていた。こんなことが許されるなら、一体どんなことが許されないというのか」
「罪がすでに明らかになったのに、ふさわしい処置をしなければ後悔を残すことになる。真に王朝のために、張禧嬪を死罪にせよ」
粛宗はこう述べたが、高官たちは反対した。張禧嬪の産んだ王子が世子になっていたからだ。世子の母を死罪にするというのは危険だった。暴君の燕山君(ヨンサングン)も生母の死罪に関わった官僚たちをかつて大虐殺した。惨劇が再び繰り返されないともかぎらない。高官たちの根強い反対も当然だった。
しかし、粛宗の決意は固かった。彼は1701年10月8日に王命を出した。
「張禧嬪が王妃に嫉妬し、ひそかに謀略をはかり、さまざまな狼藉に及んだ。まさに王朝を危うくすることばかりだ。過去の歴史と比べても、本当に恐ろしいことだ。やはり、張禧嬪を死罪にせよ。臣下たちも余の意思をくみとってほしい」
この言葉が最終決定を示していた。以後、どんなに反対の意見があっても粛宗は聞かなかった。
こうして張禧嬪は死罪となった。
仁顕王后、張禧嬪、淑嬪・崔氏……。粛宗の女性遍歴は王朝を揺るがす重大事件に発展することが多かった。そんな中で、粛宗は自分の我を通し、自分の思いのままに王宮の人事を操った。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
粛宗(スクチョン)は一番多くの王妃を抱えた国王だった(前編)
粛宗(スクチョン)は一番多くの王妃を抱えた国王だった(中編)
粛宗(スクチョン)の母が張禧嬪(チャン・ヒビン)を王宮から追い出した!
張禧嬪(チャン・ヒビン)の死罪を押し通した粛宗(スクチョン)!