朝鮮王朝にはどれだけ恐い悪女がいたのか?(歴史編)

ウラの3大悪女

張禧嬪が悪女と言われているのは、彼女を支持していた派閥が政争に敗れて、対立する派閥が政権を取ったので、意図的に悪女に仕立て上げられたのである。もし張禧嬪を支持する派閥が政権を取っていたら、そんなに悪女とは言われなかっただろう。
歴史は、勝った人たちが記録することが多く、負けた人たちはひどい言われ方をする。張禧嬪の場合は、言われているほどの悪女ではなかったと思われる。
それより、朝鮮王朝には“ウラの3大悪女”と呼ばれる3人がいる。
11代王・中宗の三番目の正室だった文定王后、21代王・英祖(ヨンジョ)の二番目の正室だった貞純(チョンスン)王后、そして、23代王・純祖(スンジョ)の正室だった純元(スヌォン)王后だ。
この3人は摂政をしたり、王の代理として振る舞ったりした。そういう意味では女帝と呼ぶにふさわしい3人である。
文定王后は、自分の息子を王にするために先妻の息子を毒殺するなど、悪政の最たる女性だった。




貞純王后はカトリック教徒が多い政敵に対して大弾圧を行なって、数万人を殺害している。
純元王后は政治を私物化して、19世紀前半に自分の一族の繁栄だけを願い、国の政治を犠牲にして朝鮮王朝が衰退する原因を作っている。
悪女が関与して政治が混乱した朝鮮王朝。悪女が出てきた背景には何があったのだろうか。
1つは儒教を国教にしていたことだ。儒教の最高の徳目は“孝”で、絶対権力を持つ王も民衆の模範として両親や祖父母を一番に考えなければならなかった。王の母や祖母は長幼の序で敬まれる立場なので、王に対してもいろんなことが言えた。
このように、王族の長老女性たちが政治に関与できたのは、儒教を国教にしていたからだ。儒教には男尊女卑を認めるところがあり、女性は低い身分に甘んじなければならなかったが、才能や野望がある女性はそれに甘んじることなく、逆にバイタリティを持って自分の野望を叶えていった。
男が優遇される社会だっただけに、男は甘やかされて弱いところがあり、力のある女性は策を弄して成り上がっていくことができた。そういう意味では、男尊女卑が、逆にバイタリティのある女性を多く輩出するきっかけになった。




ただし、女性は最初から悪女に生まれたわけではなく、悪女にさせられた側面もある。そうなった理由には、儒教社会の中で虐げられる女性特有の境遇と、自分に才覚がありながらも政治に関与できない悔しさがあった。
それだけに、朝鮮王朝時代に自分の夢を叶えようとすると、悪女にならざるを得ない事情も生じてしまう。朝鮮王朝時代の政治体制や社会情勢を考えてれば、悪女は肩書き中心の男性社会に、1つの大きな疑問を投げかける存在だった。
悪女を通して朝鮮王朝の歴史を見ると本当に興味深い。韓国時代劇が面白いのは、個性的な悪女がいっぱい出てきて、人間の奥深さを存分に見せてくれるからだ。
実際には、一般の女性はほとんど記録に残っていないが、王の母・祖母とか王妃・側室や女官などの特定の女性は、よく記録されている。彼女たちが、朝鮮王朝の歴史を大きく動かしたのは間違いない。
そういう視点で朝鮮王朝の歴史を見るのが韓国時代劇である。だからこそ、あれだけ面白いのだ。

文=康 熙奉〔カン ヒボン〕

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