近肖古王の功績
それから2年後の371年には、近肖古王自ら3万の軍を率いて、当時の高句麗の首都だった平壌(ピョンヤン)にまで攻め込んだ。機先を制した百済は、この戦いで高句麗16代王・故国原王(コググォンワン)の命を奪い、朝鮮半島中部にある黄海道(ファンヘド)一帯まで、百済の領土を拡大した。
近肖古王の功績は、領土の面だけにとどまらない。後に朝鮮王朝の都になる漢陽(ハニャン)に首都を移し、整備を行なったほか、外交面では、中国(当時は晋)や日本(倭国)に使者を送り、関係を強化した。倭国の朝廷に贈った「七支刀(チルチド)」は奈良・石上(いそのかみ)神宮に国宝として保管されている。
近肖古王で最盛期を迎えた百済だが、彼の死後、高句麗で即位した広開土大王によって、逆に領土を奪われてしまう。