李芳遠(イ・バンウォン)は執拗に世子の座を狙った。彼にしても、自分の兄たちが指名されたのであれば必死にこらえたことだろう。しかし、異母弟の李芳碩(イ・バンソク)では絶対に認めることはできなかったのである。
1400年に即位
1396年に神徳(シンドク)王后が世を去った。
息子の李芳碩は大きな後ろ盾を失ってしまった。
ただし、太祖(テジョ)の一番の側近であった鄭道伝(チョン・ドジョン)が神徳王后の願いを聞き入れて、李芳碩の後見人になっていた。
それでも、李芳遠は事態を好転させる自信があった。機が熟したのが1398年だった。そのとき太祖は病床にあったのだが、李芳遠は鄭道伝を急襲して命を奪い、さらに続けて李芳番(イ・バンボン)と李芳碩を殺害した。
これを「王子の乱」という。太祖は激怒したが、彼は病床から起きられずに事態を見ていることしかできなかった。
王朝で最大の実力者となった李芳遠は、まずは兄の李芳果(イ・バングァ)を2代王として即位させて、自分はいったん身を引く姿勢を見せた。
1400年、太祖の四男であった李芳幹(イ・バンガン)が王位を狙って挙兵した。李芳遠はすばやく動いてこれを鎮圧し、これ以上の兄弟同士の争いを起こさないために自ら即位した。ここに3代王の太宗(テジョン)が誕生した。
この太宗に対して、太祖は憎しみをあらわにした。和解のために太宗が送ってきた使者をことごとく殺してしまうほどだった。
このままでは朝鮮王朝が分裂状態になってしまう。太祖は師と仰ぐ無学(ムハク)大師の説得を受け入れて、1402年に太宗と和解した。そして、1408年に73歳の生涯を終えた。
父が世を去り、もはや太宗には気兼ねする人物がいなくなった。
そのとき、彼は何をしたのか。
神徳王后に対する憎しみをあらわにしたのだ。
神徳王后は亡くなった当時は王妃にふさわしい陵墓に埋葬されたのだが、太宗はその陵墓を破壊し、祭祀を著しく格下げした。
振り返ってみれば、太宗は実力通りの政治力を見せて朝鮮王朝の足元を磐石に築き上げた大王だ。朝鮮王朝が518年間も続いたのは、王朝の初期に指導力を発揮した太宗の功績が大きいのだが、その一方で神徳王后に対しては露骨に貶(おとし)めた。
それほど、恨みが大きかったということなのか。
文=康 熙奉(カン ヒボン)