弟の力を恐れた2代王・定宗(チョンジョン)/朝鮮王朝国王列伝2

生没年/1357年~1419年
在位/1398年~1400年

太祖(テジョ)には、8人の息子がいた。一番年下の八男が世子(セジャ/王の後継者)に指名されたが、五男の芳遠(バンウォン)はそれを認めず、八男を殺してしまう。しかし、芳遠は自ら王になろうとはせず、二男の芳果(バングァ)を世子に推薦した。

写真=植村誠

弟に権力を握られていた定宗

芳果は王位に興味はなく、かたくなに断り続けた。
「建国の功労者は芳遠であり、私が世子になるべきではない」
1398年8月、本人の意思とは関係なく芳果は世子に指名され、1カ月後に2代王・定宗(チョンジョン)として即位した。また、王位を譲った太祖は、都を去り朝鮮半島東北部の咸興(ハムン)で隠居した。




定宗は王位に就いたとはいえ、権力は芳遠が握っていた。芳遠は定宗を通じ、王の権威を強化する政策を行なった。
当の定宗は撃鼓(太鼓を打つこと)を楽しむなど、娯楽に夢中になるが、これは彼なりの保身策だった。政治に興味を示さないことで、定宗は芳遠との仲を最後まで維持できた。
1400年11月、定宗は王位を退いて上王となり、芳遠が3代王・太宗(テジョン)となった。
上王となった定宗は、撃鼓や狩猟を楽しむ生活を送り、王位を退いた19年後に62歳で亡くなった。実質的に太宗の治世と変わらなかったため、定宗には死んだ後も長い間、王としての謚(おくりな)がなかった。定宗という謚が贈られたのは、1681年の19代王・粛宗(スクチョン)の時代になってからだ。

記事提供:「朝鮮王朝オッテヨ」

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朝鮮王朝の歴史はこうなっている(前編)

朝鮮王朝の歴史はこうなっている(中編)

朝鮮王朝の歴史はこうなっている(後編)

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