叔父に王の座を奪われた端宗/朝鮮王朝の人物と歴史23

端宗(タンジョン)は、叔父である首陽大君(スヤンデグン)に王の座を奪われた人物だ。彼は在位期間が短すぎて王として特に目立った功績を残していない。そんな端宗の歴史は、悲劇と言えるものだった。





幼い王の誕生

5代王・文宗(ムンジョン)は、4代王・世宗(セジョン)の後を継いで王となったが、病弱だったため、即位から2年後の1452年に世を去ってしまう。その文定の息子が後を継いで6代王・端宗となった。当時、まだ11歳と幼かった端宗は、自分で政治を行なうことができなかったので、異民族の侵攻から国土を守った英雄の金宗瑞(キム・ジョンソ)と、義を守る忠臣として頼れる皇甫仁(ファンボ・イン)の2人が補佐役として彼を支えた。
しかし、強い野心を持って王の座を狙っていた端宗の叔父(文宗の弟)である首陽大君は、その2人を「若い王の補佐となっていること理由に、権力を独占している」と思っていた。
金宗瑞や皇甫仁に不満を抱いている人物は他にもいて、首陽大君はそういった人物を集めていった。その中心となったのが、韓明澮(ハン・ミョンフェ)と申叔舟(シン・スクチュ)である。




首陽大君は、同志たちと様々な議論を交わしたが、中には弱気になって逃げ出す者や彼を止めようとする者が出始めた。それによって、彼の決意が一瞬揺らいだものの、結果的に弱気になった者たちを振り払い行動を開始した。
首陽大君は2人の従者を連れて金宗瑞の屋敷を訪れる。彼は、屋敷の前にいた金宗瑞の息子である金承珪(キム・スンギュ)に、「お父上に会わせてほしい」と頼んだ。
しばらくすると、中から金宗瑞が現れ、首陽大君を屋敷の中に招こうとする。しかし、いくら入るように促されても、決して中に入らなかった。
なかなか中に入ってこない首陽大君に自ら近づいていく金宗瑞。彼は首陽大君から紗帽についている羽のような飾りを貸してほしいと頼まれて、息子の金承珪に持ってくるように言った。すると、首陽大君が懐から一枚の書状を取り出した。
金宗瑞はそれを読もうとするが、すでに日が落ちて辺りは真っ暗だったため、月明りに照らして書状を見ようとした。その瞬間を見逃さなかった首陽大君が合図を送ると、従者の1人が隠し持っていた鉄槌で金宗瑞を殴り倒した。不意をつかれて倒れ込んでしまった彼を見た息子の金承珪が、父親の上に覆いかぶさるようにしてかばうが、そこをもう1人の従者が隠し持っていた刀で2人を切りつけた。




金宗瑞を倒した首陽大君はそのまま端宗のところへ行き、金宗瑞を排除したこと、皇甫仁を排除しなければならないと伝えた。それを聞いた端宗は叔父である首陽大君に恐怖を感じて、言われるがまま高官を招集する王命を出す。
首陽大君の同志の1人である韓明澮は、王命により王宮に集まってきた高官たちを狭い門から1人ずつ入らせるように仕向けた。高官たちの中には、首陽大君を批判する者もいて、その者たちは門をくぐったところで殺害され、皇甫仁も無抵抗のまま殺された。これが「癸酉靖難(ケユジョンナン)」である。
こうして最高権力者になった首陽大君は、1455年に7代王・世祖(セジョ)として即位する。強引に王の座を奪われた端宗、そんな彼に忠誠を誓う者たちがいる。それが成三問(ソン・サムムン)を中心とした「死六臣」だ。彼らは、端宗を王に戻すため、世祖の暗殺を企てる。
しかし、それは失敗に終わってしまい、成三問たちは処刑された。
その後、世祖は「端宗を生かしたままにしておけば、また今回のようなことが起こるかもしれない」と思い、甥である端宗を死罪にした。こうして、端宗は1457年に16歳という若さで世を去った。

文=康 大地(コウ ダイチ)

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