知りたい朝鮮王朝12/仁宗を毒殺した文定王后

おそろしい継母

「母の顔もわからない私をこんなにも立派に育ててくださり、本当にありがとうございました」
父の棺にそう告げると、仁宗は自室にこもった。
彼は悲しみにくれながら、6日間の断食をして喪に服した。この話は国中に広まり、庶民は仁宗の孝行ぶりを讃えた。
仁宗が聖君と呼ばれる理由はこれだけではない。彼は3歳で文字を読み始め、7歳で成均館(ソンギュングァン/儒教を学ぶ最高学府)に通うほど聡明だった。また、仁宗は徹底的な禁欲生活を続けた。
「私たちは国をよくするために政治を任されている。不必要な贅沢は国民への裏切りと同じだ」
王自らが模範的な生活を送っている以上、仁宗時代の宮中は自然と規律のとれたものになっていた。




しかし、仁宗の道徳的な生活は長く続かなかった。
実は、中宗と文定王后には慶源(キョンウォン)という息子がいた。つまり、仁宗の異母弟である。
文定王后は「仁宗さえいなければ、私の息子が王に選ばれて、私も大きな権力を手にできたのに……」と、仁宗への憎しみをつのらせていた。強い権力欲を持つ彼女は、慶源を王にするために、仁宗を何度も殺そうとした。そうした中で、宮中では仁宗派と慶源派という2つの派閥が激しく対立した。
この状況が、道徳的な生活を続ける仁宗を悩ませた。
「いずれ慶源に王位を譲るべきなのか……」
葛藤した仁宗は、自分の死後に慶源が王になれるように、自分の子供をもうけなかった。それは、仁宗派にとって大きな不安要素だった。側近は仁宗に子作りを執拗に勧めたが、仁宗の意思は固かった。
そうした情勢の中、仁宗は急激に体調を悪くしていった。
(ページ3に続く)

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