悠久の日韓古代史・第8話「高句麗と日本」

曇徴と法定

慧慈は悲壮な覚悟を持った。
「人民の苦しみを救われた本当の大聖が亡くなられた。我は国を異にするが、あの方との心の絆を断つことはできないし、1人で生き残ってもなんら益がない。来年のご命日に我も往生する。浄土で太子にお会いして、一緒に衆生を救いたい」
慧慈は自らの言葉どおり、聖徳太子の翌年の命日に往生した。
他に、高句麗から曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)が610年に来日。当時、高句麗は隋の攻撃を受けて危機に瀕していた。2人の来日には支援を模索する目的もあったかもしれない。
曇徴と法定は聖徳太子と接触。曇徴は五経(儒教の古典で詩経、書経、易経、春秋、礼記をさす)について日本に詳細に伝えた。




曇徴たちは製紙方法や墨の作り方も伝授した。
それが、日本で写経が行なわれる契機となった。高句麗の彩色技術も、仏像の塗装や飛鳥美術の発展に寄与した。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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