悠久の日韓古代史・第18回「和議の提案」

豊臣秀吉の大陸制覇の野望を早くから察知していた明は、豊臣軍の攻撃を知ってからもしばらく様子をうかがっていたが、ついに援軍を出した。しかし、1592年7月に平壌(ピョンヤン)で豊臣軍を駆逐しようとした明は、逆に敗退を喫した。





碧蹄館の戦い

明は日本の兵力をあなどっていて、武器や兵士の数が十分ではなかった。
戦略の誤りに気づいた明は、今度は本格的な救援軍を送ってきた。周辺の異民族との戦いに慣れている明はやはり強かった。1593年1月、猛将・李如松が指揮する明の軍勢は、平壌において小西行長軍を破った。
すでに冬になり、豊臣軍は厳しい寒さと食糧不足に悩み、上陸当初の勢いはまったくなかった。
平壌を取り戻した明は、都の漢陽(ハニャン)に向けてどんどん南下していった。危機感を持った豊臣軍は、漢陽の北側にある碧蹄館(ペクチェグァン)で明の軍勢と激しく争った。
「いったん引き下がって様子を見る」
李如松はこう決断して明の軍勢は碧蹄館から遠ざかった。
石田三成を初めとする朝鮮奉行たちは、情勢を分析したうえで、咸鏡道(ハムギョンド)に展開している加藤清正に漢陽まで下がってくるように命じた。




ただ、それもたやすいことではなかった。各大名の配下にいた軍勢の消耗が激しかったからだ。
兵力の半分近くまでを失う状況がどの大名にも見られた。
(ページ2に続く)

悠久の日韓古代史・第1話「海を渡る人々」

悠久の日韓古代史・第2話「広開土王の時代」

悠久の日韓古代史・第17回「文禄の役」



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