悠久の日韓古代史・第17回「文禄の役」

文禄の役が始まる

副使の意見が通った背景には、激しい派閥争いがあった。
当時の朝鮮王朝では政権中枢で党争が盛んだったが、副使が所属していた派閥のほうが権力基盤が優勢だったのである。
そんな事情から「日本は攻めて来ない」という意見が採用され、以後の朝鮮王朝は国防の強化に乗り出さなかった。
結果的に、それがいかに国を存亡の危機に陥れたか。国王や政権首脳はすぐに悔やんでも悔やみきれない立場に追い込まれていった。
秀吉が用意した軍勢は16万。この大軍が9つの軍団に編成されて次々に朝鮮半島に送られた。
1592年(文禄1年)4月13日、小西行長が率いた第1軍が釜山に上陸して「文禄の役」が始まった。




小西行長はまず、釜山城に対して「仮途(かと)入明」(明に入りたいので途中の道を借りたい、という意思)の最後通帳を行なったのだが、朝鮮王朝側がこれに応じるわけがない。
相手が反応しないことを見届けてから、豊臣軍の第1軍は釜山城を攻めて落とした。
(ページ3に続く)

悠久の日韓古代史・第1話「海を渡る人々」

悠久の日韓古代史・第2話「広開土王の時代」

悠久の日韓古代史・第18回「和議の提案」




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