光海君(クァンヘグン)の政権はどのように誕生したのか

14代王・宣祖(ソンジョ)の正妻は懿仁(ウィイン)王后だったが、病弱で子供がいなかった。こうなると、側室が産んだ王子の中から後継者を選ばなければならない。そのとき、宣祖はどんな選択をしたのだろうか。





血に塗られた歴史

宣祖の後継者候補の筆頭は、宣祖の長男・臨海君(イメグン)だった。彼は性格が粗暴で評判が良くなかったうえに、壬辰倭乱(朝鮮出兵のこと)のときに加藤清正の捕虜となってしまった。その屈辱から気がすさみ、解放後も生活が乱れた。
その臨海君に代わって評価を高めたのが二男・光海君(クァンヘグン)だった。彼は、指導者の一人として豊臣軍に対抗した。その実績は世子(セジャ/王の後継者)にふさわしいものだった。
捕虜になった長男と、戦乱の中で名をあげた二男。壬辰倭乱によって宣祖の息子二人の評価は決定的に分かれたが、宣祖が世子に指名したのは二男の光海君のほうだった。
しかし、情勢を一変させる王子の誕生があった。1600年に亡くなった懿仁王后に次いで宣祖の正妻となった仁穆(インモク)王后が、1606年に永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだのである。
宣祖にとっては、思ってもみなかった嫡男(ちゃくなん/正妻が産んだ息子)である。
このとき、宣祖は54歳。嫡男を王位に就けたいという願望が強くなった。




しかし、宣祖には時間が残っていなかった。世子を光海君から永昌大君に代えるには相応の手続きが必要なのだが、それができないままに宣祖は1608年に世を去った。
永昌大君は宣祖の嫡男であり、父が亡くなったとはいえ、母の仁穆王后は健在だった。
その仁穆王后が代理で政治を行なって王位に上がる方法もあったのだが、わずか2歳ではそれも無理だった。結局は、当初の予定どおり光海君は宣祖を継いで15代王となった。
光海君は、自分が薄氷の上の玉座に座っていることを自覚していた。王位を脅(おびや)かす可能性があるのは臨海君と永昌大君だった。その存在を異様に警戒したのは、むしろ光海君の側近たちのほうだった。彼らは結局、臨海君と永昌大君を殺害した。
こうして光海君の政権は「血に塗られた歴史」を作ってしまった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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