自分の政治ができなかった
さらに問題だったのが、中宗が三番目の正室として迎えた文定(ムンジョン)王后だ。この女性は自分が産んだ息子を王位につけるために、中宗の先妻が産んだ子供を殺害しようとして王宮を混乱させる。
こうした出来事は、中宗の統率力のなさが引き起こしている。彼自身も、重臣に頭が上がらない状況を打破しようと、儒教的賢人政治をめざした趙光祖(チョ・グァンジョ)を重用したが、中宗は結局、趙光祖の理念を理解できず、彼の一派を追放してしまう。そのうえで趙光祖を死罪にした。
このように、中宗は準備不足のまま王になってしまい、クーデターを成功させた重臣たちに完全に仕切られて自分の政治ができなかった。
それではいけないと、理想に燃えた趙光祖らを重用して独自の政治を行なおうとしたが、結局は失敗してしまう。
中宗の治世時代はさしたる外敵がなく、国内が安定していた時期だったが、歴史的には中宗の不甲斐なさばかりが目立つ。
嫌々ながら王になったが、やはり自分はその器でないと中宗は悶々と思い続けていたのではないだろうか。
(ページ3に続く)