清の人質となった昭顕世子はどうなった?(歴史編)

昭顕世子の動向が歪められた

昭顕世子と姜氏は、祖国を愛する気持ちが強かった。それなのに、2人の姿が仁祖には歪められて伝えられた。つまり、世子にふさわしくないほど外国にかぶれてしまったというわけだ。
実は、歪めて伝えた張本人が、仁祖の側近の金自点(キム・ジャジョム)であり、もう1人が仁祖の側室の趙氏(チョシ)だった。
特に、姜氏と趙氏はもともと仲がとても悪かった。そういうこともあり、金自点と趙氏は捏造のように変な噂を流したりした。
「世子が瀋陽では王のようにふるまっている」
そんな話は仁祖の耳にも届いた。
彼は憤慨した。清にかならず復讐をしたいと憎んでいたのに、こともあろうに世子が清の文化に取り込まれてしまうとは……。
もはや仁祖からすれば、世子夫婦は裏切り者だった。




8年間の人質生活を終えて、昭顕世子と姜氏が故国に帰ってきた。1645年2月のことだ。
昭顕世子は、久しぶりに会った仁祖に、清と西洋の文化のすばらしさを語った。
激怒した仁祖は、昭顕世子に硯(すずり)を投げつけた。それほど怒りが激しかったのである。
その2カ月後、昭顕世子は高熱を発して倒れた。王族の主治医による鍼治療が行なわれたが、病状が悪化してそのまま亡くなってしまった。
仁祖と趙氏が昭顕世子を毒殺したのではないか、と疑われている。事実、鍼治療を行なった医官は、趙氏の息がかかった者だった。
仮に昭顕世子が存命で、仁祖の後を継いでいれば、王になった彼は清と西洋の先進の文明を朝鮮王朝に取り入れたはずだ。
そうなっていれば、その後の朝鮮王朝はどうなっていたことか。
帰国してわずか2カ月で急死した昭顕世子の短命が惜しまれる。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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