朝鮮王朝3代王・太宗(テジョン)は、初代王・太祖(テジョ)の五男として生まれたが、後継者に指名されなかったことで「第一次王子の乱」を起こした。その後、彼はどんな行動を取ったのか。
「第二次王子の乱」勃発
芳遠(バンウォン)は、父親の太祖が退位してからいきなり王になったわけではない。2代王・定宗(チョンジョン)として即位したのは、二男の芳果(バングァ)だった。この定宗の役目は、「第一次王子の乱」で起きた骨肉の争いのほとぼりを冷まして、すみやかに王位を譲ることだった。
しかし、兄弟の中で思わぬ揉め事が起こる。四男の芳幹(バンガン)が王の座を狙って、芳遠の命を脅かし始めた。芳遠は、当然のように迎え撃って鎮圧させた。芳幹はそれによって流罪となった。これが「第二次王子の乱」である。
その後、「もたもたしていると、また王の座を狙うものが出てくるかもしれない」と考えた芳遠。一方の定宗も「このままでは自分の身が危ない」と思っていた。その結果、1400年11月に芳遠が3代王・太宗として即位したが、それは、妻である元敬(ウォンギョン)王后の支えが大きかった。
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