朝鮮王朝が長寿王朝になったのは太宗のおかげ!

[太宗(テジョン)の人物データ]

生没年/1367~1422年
在位期間/1400~1418年
父/初代王・太祖(テジョ〔生没年:1335~1408年〕)
母/神懿(シヌィ)王后(生没年:1337~1391年)
息子/4代王・世宗(セジョン〔生没年:1397~1450年〕)

写真=植村誠




兄弟同士の争い

初代王・太祖(テジョ)には8人の息子がいた。
第一夫人の神懿(シンイ)王后から6人の息子、第二夫人の神徳(シンドク)王后から2人の息子が生まれた。
この8人の息子の中で、朝鮮王朝の建国に一番貢献したのが五男の芳遠(パンウォン/後の太宗)であった。
彼は策謀が巧みな武闘派だった。
しかし、太祖は神徳王后との間にできた八男の芳碩(パンソク)を溺愛して、まだ10歳だったのに世子(セジャ/正式な後継者)に指名した。
芳遠は怒った。実の兄たちならば許せるが、まだ幼い異母弟が世子になることは絶対に容認できなかった。
芳遠が警戒したのが、太祖の側近だった儒学者の鄭道伝(チョン・ドジョン)である。彼が芳碩の後見人だった。




1398年、芳遠は奇襲攻撃を仕掛けて鄭道伝の命を奪い、続けて芳碩を殺してしまった。
太祖は逆上したが、病床にあったので五男の暴走を止められなかった。
こうして芳遠は朝鮮王朝の最高実力者となり、太祖に譲位をうながして、兄(太祖の二男)の芳果(パングァ)を2代王・定宗(チョンジョン)として即位させた。
しかし、実権は芳遠が握っていた。つまり、定宗は芳遠の操り人形にすぎなかったのである。
そうした状況の中で、太祖の四男の芳幹(パンガン)が王位に執着して挙兵した。しかし、彼も芳遠の力に対抗することができず、結局は挙兵に失敗した。それが1400年のことだった。
乱を平定した芳遠は、定宗を退位させて、満を持して3代王の太宗となった。
(ページ2に続く)

朝鮮王朝の基盤を整えた3代王・太宗(テジョン)

おどろき朝鮮王朝2「太宗(テジョン)の剛腕」

神徳(シンドク)王后を異様に憎んだ太宗(テジョン)!

李成桂(イ・ソンゲ)/朝鮮王朝人物紀行21

おどろき朝鮮王朝1「太祖(テジョ)の乱心」




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