燕山君はどれほどの悪政を行なったのか

“最悪の暴君”と呼ばれた燕山君(ヨンサングン)。「朝鮮王朝実録」で燕山君は、「嫉妬深くて曲がった性格で、知恵深いところもなかった。優秀な教師がそばについていても、物事の理解力が足りなかったのである」と辛辣(しんらつ)に書かれている。





数々の悪行

「朝鮮王朝実録」で燕山君は徹底的に批判されている。
「成宗(ソンジョン/燕山君の父)は『勉学にまったく力を入れず、いつまでも愚かなのはなぜだ?』と世子(燕山君)をよく叱った。すると、世子は成宗に会うのを避けた。たとえ呼ばれても、からだが痛いと言い訳をして、行かないことがしばしばだった。成宗の側近が様子を見に行くと、世子は『病気じゃなかったと告げ口をしたら、お前を殺してやる』と怒鳴(どな)った」
「成宗は世子を廃したいという気持ちが強かったが、他の嫡子がいなかったことと、王子が幼くて拠り所がないことを哀れに思い、それができなかった」
このように、成宗が世子を交代させなかったことが、後の大虐殺事件の萌芽(ほうが)となってしまった。
実際、成宗の後を継いで1494年に10代王となった燕山君は、即位当初はおとなしくしていたが、慣れるにしたがって奇行を見せ始めた。王宮の後苑にいた鹿を毎日のように撃ち殺してその肉をむしゃべり食べたり、妖(あや)しげな女たちと放蕩三昧の日々を送ったりした。もちろん、周囲から諫言を浴びたが、燕山君は憤慨して逆に言動が過激になった。




そんな暴君に目の敵(かたき)とされたのが、道義と名分を重んじる高官たちだった。
成宗時代に冷遇された一部の官僚にけしかけられた燕山君は、何かと口うるさい高官たちを徹底的に弾劾した。これによって、殺された高官も多い。
これほどの悪政が続けば、庶民も黙っていられない。燕山君を批判する文書が市中に掲げられたが、それに怒った燕山君はハングルの使用を禁止する暴挙に出た。もはや常軌を逸しているとしか言えない。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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