日本と韓国の交流史22/朝鮮通信使

朝鮮通信使が来日した年を見てみると、順に1607年、1617年、1624年となっている。この3回の来日は、戦時中に日本に連れて来られた人々を帰国させることが主たる目的になっていて、「刷還使」という役割を担っていた。

朝鮮通信使の宿舎となった鞆の浦(広島県)の福禅寺




使節の構成

4回目の1636年の来日時は、特別な目的がなく、形のうえでは天下泰平のお祝いにやってきたということになった。純粋に両国の友好を確認しあうための使節だったのである。
以後は「朝鮮通信使」という名称が定着する。この場合の「通信」とは「信(まこと)を通じる」という意味である。両国の友好関係に一番大事なのは信頼しあうことであり、それを実現させるためにやってくるのが「朝鮮通信使」という位置づけだった。
以後も定期的に日本を訪れるようになった朝鮮通信使。どのような構成になっていたのだろうか。
主要三役は正使、副使、従事官である。それぞれ、科挙に合格して出世していた朝鮮王朝の高官が務めていた。
随員は製述官、通訳、医師、武官、楽団員、絵師などであり、人数が一番多かったのは膨大な贈答品や用具類を持つ人夫たちであった。この人夫の数が毎回ふくれあがり、一行の総人数は400人から500人ほどになっていた。




これほどの人数が漢陽(ハニャン/朝鮮王朝の都)と江戸の間を往来するのだから、かかる経費は莫大だった。
日本の領土に入ってからは、沿海・沿道の各藩が警護や接待にかかる経費を負担した。各藩としては、最小限に経費を抑えたいのはやまやまだが、他の藩との比較で負けるわけにはいかない。そういう見栄がまさると、巨費をかけて分不相応な接待を繰り返し、回を追うごとに朝鮮通信使に対する饗応は豪華になるばかりだった。
しかし、見返りも多かった。それは、朝鮮通信使が文化使節としての側面を持っていたからだ。
使節の中にいた医師、文人、儒学者、絵師は特に重宝された。
(ページ2に続く)

日本と韓国の交流史1/海を渡る人々

日本と韓国の交流史2/広開土王の時代

日本と韓国の交流史23/雨森芳洲と申維翰



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