トンイと張禧嬪(チャン・ヒビン)のライバル物語4「死罪」(再読版)

1701年8月に仁顕(イニョン)王后が亡くなります。彼女は1694年に王妃に復位しましたが、7年で世を去りました。最後の1年半はずっと病床にいて起きられない状態が続きました。仁顕王后が亡くなった直後に、「張禧嬪が呪い殺すための儀式をしていた」と淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏が自ら粛宗(スクチョン)に告発しました。そのことは「朝鮮王朝実録」に出ています。あまりにも仁顕王后を慕う気持ちが強く、淑嬪・崔氏は慟哭しながら告発に至ったということでした。それを聞いて粛宗が激怒しました。

粛宗の言葉

1701年9月23日の「朝鮮王朝実録」の記述を見てみましょう。
「夜に王が備忘記(王命を記した文章)を出しました。『内殿(ネジョン/王妃)が病を患った2年間、張禧嬪は1回もお見舞いに来なかったばかりでなく、本来なら中宮殿(チュングンジョン)と呼ばなければならないのに、必ず閔(ミン)氏と呼んでいた(名前を直接言うということは格下扱いを意味しています。本来であれば最大級の尊称で呼ばなければならなかったのです)。さらには内殿のことを邪悪な人と評していたというではないか。それだけではない。就善堂(チソンダン/張禧嬪の住居)の西側に密かに神堂を建て、いつも2、3人の怪しげな者たちと祈祷をして、おかしなことを続けていたという。こんなことが許されるなら、いったいどんなことが許されないというのか。




済州島に流罪となっている罪人の張希載(チャン・ヒジェ/張禧嬪の兄)を処刑して、早く国の刑罰を正しく行なうようにせよ」
つまり、粛宗は張禧嬪が仁顕王后を呪詛(じゅそ)していたと断じたのです。
(ページ2に続く)

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