英祖が起こした悲劇/康熙奉の朝鮮王朝人物史22

粛宗(スクチョン)は1720年に59歳で世を去ります。後を継いだのは張禧嬪(チャン・ヒビン)の息子で、20代王の景宗(キョンジョン)として即位しました。この景宗はとても性格がよかったそうで、張禧嬪とは違って人望もありました。けれど、在位わずか4年で亡くなります。享年36歳でした。





世子の餓死事件

景宗には子供がいませんでした。「張禧嬪に腹の下を握られて失神したことが原因では?」とも言われていますが、もともと病弱だったことも影響していたのでしょう。
景宗に後継ぎがいないので、異母弟となる淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏の息子が1724年に21代王になりました。それが英祖(ヨンジョ)です。
朝鮮王朝の中でも政治的な業績が多い名君と称されている英祖。彼の時代は派閥争いが激しかったのですが、英祖は各派閥から公平に人材を登用する政策で成果をあげました。今でいうと、絶妙な人事をする指導者だったといえます。
「そんな王がなぜ……」
そう首をかしげざるをえない出来事を英祖は起こしています。それが息子の餓死事件です。この事件の背景を説明しましょう。
英祖の最初の正妻は貞聖(チョンソン)王后でした。2人の間に子供はいなかったのですが、英祖には側室が産んだ息子が2人いました。長男の孝章(ヒョジャン)は早世してしまいましたが、次男の荘献(チャンホン)は聡明な男子として成長しました。実際、わずか10歳で政治の表舞台に立って意見がいえるほど頭脳明晰でした。




しかし、才がまさりすぎて、高官たちを批判して恨みを買ってしまったことが後々に響いてきます。要するに、いたずらに反対勢力をつくってしまったのです。
しかも、荘献は生活態度に難がありました。酒癖が悪かったり自分の側室を殺してしまったり……。
このように、本人に問題があったことは事実ですが、派閥争いの巻き添えになった部分もありました。結局、荘献の行状は尾ひれがついて英祖の耳に届き、それが度重なるにつれて、ついに英祖の堪忍袋の緒が切れてしまいました。
「お前が王を継いだら王朝は大変なことになる。いっそのこと、自害しろ」
英祖は我が子に非情の王命を発します。しかし、荘献は謝罪を繰り返すだけで、自ら命を絶つことができませんでした。英祖の怒りは収まらず、「自害しろと言っても自害しないのなら、米びつをもってまいれ」と側近に命じ、運び込まれた米びつに荘献を閉じ込めました。
いつ死んだのかは不明ながら、8日目に米びつを開けてみたら荘献は餓死していました。なんということでしょうか。父王が世子を飢え死にさせるというむごたらしいことが王宮で起こってしまったのです。




ドラマ『イ・サン』はこの悲劇的な事件を第1話にもってきていました。そのシーンによってこの事件を知った視聴者も日本で多いことでしょう。
英祖は息子が亡くなってからすごく後悔して、息子に思悼世子(サドセジャ)という尊号を贈ります。「世子を思って心から悼む」という意味でしょうが、なぜ生前に米びつを開けなかったのでしょうか。朝鮮王朝で王になったのは27人しかいませんので、彼らの重圧は他の誰にもわからないのですが……。
ちなみに、餓死事件が起こったのは1762年で、英祖は68歳でした。そして、荘献は
27歳で絶命しています。
この荘献には10歳の息子がいて、英祖が1776年に亡くなったときに王位を継いでいます。それが22代王の正祖(チョンジョ)です。ドラマ『イ・サン』の主人公になっている王です。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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