朝鮮王朝創設の際に、李成桂(イ・ソンゲ)が一番頼った側近として制度や組織をまとめる活躍をしたのが儒教学者の鄭道伝(チョン・ドジョン)です。彼こそは、朝鮮王朝創設時の第一の功臣といえるでしょう。
鄭道伝の評価は?
鄭道伝は八男の芳碩(バンソク)の後見人でもあり、母親である神徳(シンドク)王后から「くれぐれも息子をよろしく」と頼りにされていました。神徳王后が普通に長生きしていれば間違いなく芳碩が2代王になったはずです。
ところが、神徳王后は1396年に亡くなり、芳碩は後ろ盾を失ってしまいました。その隙を見逃さず、ここぞと出てきたのが武闘派の芳遠(バンウォン)です。
彼は1398年に一気に異母弟たちを排除するクーデターを起こしますが、それには伏線があります。最初に行動を起こしたのは鄭道伝のほうでした。
彼は、王が病気だからみんな王宮に集まれという伝令を王の息子たちに送ります。そうやって集めた神懿(シヌィ)王后の息子たちを一網打尽で排除するという策略でした。
それを見抜いた芳遠は逆に切り返し、謀議中の鄭道伝を殺しに行きます。ここからは「朝鮮王朝実録」に書いてある通りの話をします。
鄭道伝は同志の愛人の家で密談をしていましたが、芳遠が自分の軍勢を連れてその家を取り囲みます。それを察知して、鄭道伝たちは逃亡をはかります。特に、鄭道伝は近所の家の押し入れに隠れたのですが、その家の主人が芳遠の前に飛んできて、「うちに小太りの男が入ってきました」と報告しました。
そこで、芳遠はその家に兵を派遣し、押し入れに隠れている鄭道伝を見つけ出しました。鄭道伝は芳遠の前で情けなくひざまずいて、「命だけは助けてください、お願いします」と懇願します。
英雄であるはずの鄭道伝が命ほしさに情けない姿をさらしたというのが「朝鮮王朝実録」の記述です。みじめな鄭道伝を芳遠が成敗した、という筋書きになっているのです。
ところが、『龍の涙』という「朝鮮王朝実録」にわりと忠実に作られたドラマでは、この場面の描き方が違います。
秘密会議を開いていた鄭道伝を芳遠の手勢が囲むと、鄭道伝は観念して堂々と出てきます。芳遠が「協力してくれるなら命を助ける」と言っても、毅然とした態度で「安らかに眠らせてくれ」と返答します。決して命乞いなどしません。
そのように堂々としている鄭道伝を芳遠の手下が後ろから切りつけます。こうして鄭道伝は命を落としますが、その死に方は実に威厳があるものでした。これが、まさに「今の韓国」の評価なのです。
つまり、鄭道伝を卑下することなく、大人物として描いています。逆に言うと、「朝鮮王朝実録」の記述を信用していないのです。なぜなら、勝者となった芳遠の側から歴史を記録しているからです。
鄭道伝は実際にどのように死んだのでしょうか。今となってはわかりませんが、その出来事を記した「朝鮮王朝実録」が芳遠の息がかかった者たちが編集をしたのも事実です。
「朝鮮王朝実録」は貴重な歴史書ですが、どういう経緯で編集されたのかを常に頭に入れておかなければなりません。歴史の記録を公平に残すというのは、本当に難しいことなのです。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
康 熙奉(カン・ヒボン)
1954年東京生まれ。在日韓国人二世。韓国の歴史・文化や日韓関係を描いた著作が多い。特に、朝鮮王朝の読み物シリーズはベストセラーとなった。主な著書は、『知れば知るほど面白い朝鮮王朝の歴史と人物』『朝鮮王朝の歴史はなぜこんなに面白いのか』『日本のコリアをゆく』『徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたのか』『ヒボン式かんたんハングル』『悪女たちの朝鮮王朝』『韓流スターと兵役』『朝鮮王朝と現代韓国の悪女列伝』など。最新刊は『韓国ドラマ&K-POPがもっと楽しくなる!かんたん韓国語読本』。