首陽大君の野望/康熙奉の朝鮮王朝人物史4

3代王・太宗(テジョン)の三男がハングルを創製したことで有名な4代王・世宗(セジョン)です。兄2人をさしおいて王になれたのは、すばらしい学識の持ち主だったからでしょう。実際、歴史に残る名君として安定した治世を行ないました。





端宗の王位が危ない

1450年に世宗が世を去ると、長男の文宗(ムンジョン)が5代王となります。学者なみに頭がよかったのですが、からだが弱く、わずか2年3カ月の在位で亡くなってしまいます。
その死はあまりに早すぎました。6代王には文宗の長男の端宗(タンジョン)が就きますが、このときはまだ11歳でした。
こういう幼い男子が王になりますと、王族女性の長老が垂簾聴政(すいれんちょうせい)をするのがならわしでした。つまり、幼い王の後ろに簾(すみ)を置き、その奥に座っている母親か祖母が「こうせい、ああせい」と指示を出して政治を行なうのです。
しかし、摂政するような長老女性が端宗のまわりにはいませんでした。端宗の母は彼を出産した直後に亡くなっていたのです。
それで、端宗が頼ったのが金宗瑞(キム・ジョンソ)という老臣です。世宗の時代に北から侵攻してきた異民族を食い止める際に大きな功績を挙げた英雄で、別称が「大虎」。そう言われるくらい勇猛な人だったのです。




この金宗瑞が後見人となって端宗を支えました。それでも端宗の王位は安泰とはいきません。なぜなら、世宗の二男で端宗の叔父にあたる首陽大君(スヤンデグン)が露骨に王位を狙う動きをしていたからです。
兄弟の中で普通は長男に王位が行きますから、二男だと本来は出番がないのですが、この首陽大君は自信過剰で「俺が王にふさわしい」と思い込み、甥から王座を奪う策略を練ります。
実は、文宗も首陽大君の野望を見抜いていました。「自分が死ねば、弟が王位を狙ってくるだろう」と察知していて、亡くなる間際まで金宗瑞に「絶対に息子を守ってくれ」と頼んでいます。
こうして端宗の王位をめぐって金宗瑞と首陽大君が壮絶な対決を繰り広げていくことになります。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

康 熙奉(カン・ヒボン)1954年東京生まれ。在日韓国人二世。韓国の歴史・文化や日韓関係を描いた著作が多い。特に、朝鮮王朝の読み物シリーズはベストセラーとなった。主な著書は、『知れば知るほど面白い朝鮮王朝の歴史と人物』『朝鮮王朝の歴史はなぜこんなに面白いのか』『日本のコリアをゆく』『徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたのか』『ヒボン式かんたんハングル』『悪女たちの朝鮮王朝』『韓流スターと兵役』『朝鮮王朝と現代韓国の悪女列伝』など。最新刊は『韓国ドラマ&K-POPがもっと楽しくなる!かんたん韓国語読本』。

朝鮮王朝の建国/康熙奉の朝鮮王朝人物史1

王子の乱/康熙奉の朝鮮王朝人物史2

太宗の時代/康熙奉の朝鮮王朝人物史3

金宗瑞襲撃事件/康熙奉の朝鮮王朝人物史5

王位を強奪した世祖/康熙奉の朝鮮王朝人物史6




関連記事

特集記事

ページ上部へ戻る