張禧嬪の死罪/康熙奉の朝鮮王朝人物史21

せっかく王宮に戻ってきた仁顕(イニョン)王后ですが、病弱で床に臥せっていることが多かったようです。その末に1701年8月に亡くなりました。このとき、張禧嬪(チャン・ヒビン)が祠を建てて仁顕王后を呪い殺そうとしていたことが淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏の証言によって発覚します。





波瀾万丈な生涯

粛宗もすでに張禧嬪から心が離れていますから、死罪に値すると思ったのでしょう。1701年9月、粛宗は重臣たちの前で張禧嬪を激しく非難します。
「1回も中宮のお見舞いに来なかったばかりか、彼女を呼び捨てにして邪悪な人だと評していた」
「密かに神堂を建てて、怪しげな者たちと祈祷をしておかしな動きをしていた」
「今や、その罪が明らかになった」
ここまで言い切った粛宗は、最後に語気を強めて次のように命令しました。
「張禧嬪を自害させよ!」
粛宗は自ら張禧嬪の死罪を声高く主張しました。
ドラマ『トンイ』では、死罪を宣告された張禧嬪が「一目だけでも息子に会わせて」と取り乱しながら懇願する姿が描かれていました。
しかし、その願いは聞き入れてもらえませんでした。すると彼女は、そばにいたトンイ(淑嬪・崔氏)にすがりつき、「あなただけが頼りなの。息子を守って」と哀願していました。




あれほど高貴で自信たっぷりのふるまいを見せていた張禧嬪が、見境もなく落ちぶれていきました。それをあからさまに見せるのが、韓国ドラマの真骨頂です。底辺から頂点へ、そして、頂点から奈落の底へ・・。人生の浮き沈みをジェットコースーターのように描くのが韓国ドラマは得意なのです。
以上はドラマの中での話ですが、史実では張禧嬪のことをどう記録されているのでしょうか。
実は、張禧嬪があまりに「最後にせめて息子に会わせて」と懇願するので、粛宗は会わせてあげたのです。
最後の場面、張禧嬪は息子を抱きしめて今生の別れを惜しむ……かと思いきや、実は違うのです。張禧嬪は何を思ったのか、当時13歳になる息子の腹の下あたりをギュっと握って、そのまま離さなかったそうです。息子はそれにビックリして失神してしまうほどでした。張禧嬪がなぜそんなことをしたのか、いまだに謎です。
結局、張禧嬪は死罪になりました。享年42歳。その波瀾万丈な生涯はいかにもドラマ向きと思えるのか、彼女ほど韓国時代劇で何度も取り上げられた人物は他にいません。まさに、朝鮮王朝で一番有名な女性だと言えるでしょう。




一方の淑嬪・崔氏は1718年に世を去っています。張禧嬪に比べると非常に地味で、後世でもほとんど名前が知られていませんでした。そんな事情を一変させたのがドラマ『トンイ』です。この作品で淑嬪・崔氏が主人公になったことから、今では韓国人の多くが淑嬪・崔氏を知ることになりました。ドラマの影響力はかくも大きいのです。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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