興宣大院君の政治/康熙奉の朝鮮王朝人物史26

高宗(コジョン)は王になったときにまだ11歳でした。父の興宣大院君(フンソンデウォングン)が摂政を行ないましたが、彼は荒廃していた景福宮(キョンボックン)の再建に乗り出しました。この景福宮は1592年に豊臣軍の攻撃を受けたときに焼失していて、以後は荒廃したままでした。しかし、再建には莫大な資金が必要で、それが庶民への増税に結びつきました。





外国との衝突

興宣大院君は鎖国政策を強化する過程でカトリック教徒を弾圧しましたが、フランスの神父9人が殉教する事件も起きました。
フランス政府は報復として1866年に都の漢陽(ハニャン)に近い江華島(カンファド)を一時的に占拠。このときはフランス軍がなんとか撤退したのですが、その2カ月後には、通商を求めてやってきたアメリカの商船ゼネラル・シャーマン号が、朝鮮王朝側の軍艦と衝突して沈没するという事件が勃発しました。
5年後の1871年、アメリカ側は損害賠償と通商の許可を求めて江華島に侵入。相次ぐ欧米各国の軍事行動で朝鮮王朝は恐怖にさらされます。
その当時、政権の内部では、高宗の妻である明成(ミョンソン)王后と父の興宣大院君による主導権争いが激化していました。明成王后は日本でも閔妃(ミンビ)として知られる王妃です。
再び勢道政治にならないように、興宣大院君は力の弱い一族から高宗の正妻を迎えました。しかし、明成王后はとても有能な女性で、自分の一族を政権の要職に採用する機会をうかがいながら、1873年には政変を起こして興宣大院君を失脚させています。




そうした中で、日本も明治新政府になってから朝鮮半島に触手をのばします。1875年9月に日本の軍艦が江華島の沖で挑発的な行動を取ったことで軍事衝突に発展。これを機に、日本は朝鮮王朝に開国を迫りました。朝鮮王朝は武力を背景にした日本の要求を拒めませんでした。
翌年2月、日本と朝鮮王朝の間で修好条規が締結され、朝鮮王朝は開国を余儀なくされました。以後、朝鮮王朝はアメリカ、フランス、ロシアとも通商条約を結びましたが、これらは武力に威嚇されて結んだ不平等条約でした。まさに、外交の敗北と言えます。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

朝鮮王朝の建国/康熙奉の朝鮮王朝人物史1

王子の乱/康熙奉の朝鮮王朝人物史2

太宗の時代/康熙奉の朝鮮王朝人物史3

貞純王后の暗黒/康熙奉の朝鮮王朝人物史24

哲宗の即位/康熙奉の朝鮮王朝人物史25



関連記事

特集記事

ページ上部へ戻る