仁顕(イニョン)王后が質素な白いチョゴリを着て、わずかなお供を連れて実家に戻る場面……それは様々な韓国時代劇で描かれてきました。ドラマの中で仁顕王后は、「自分は罪人ですから、実家に戻っても粗末な離れで暮らします」と本当に健気なことを言います。視聴者が同情するのも当然です。
粛宗の言い訳
張禧嬪(チャン・ヒビン)は王妃に昇格して贅沢三昧の生活に明け暮れます。息子も世子として王の後継者に指名されました。ここまでは張禧嬪の思いどおりで、これ以上はない立場になりました。
しかし、誤算がありました。それは、粛宗(スクチョン)の浮気性です。張禧嬪が王妃になった途端に、粛宗は他の女性に目が行ってしまったのです。
彼が惚れた女性こそが、あのトンイでした。
トンイというのは淑嬪(スクビン)・崔(チェ)氏のことです。ドラマ『トンイ』の主人公になっています。ただし、このトンイという名はドラマの創作のようです。ここでは正式に淑嬪・崔氏と呼びましょう。
ところで、張禧嬪にも淑嬪・崔氏にも「嬪」という字が入っています。これは、側室の最高位を表す肩書のことです。品階でいうと、正一品というりっぱなものになります。
ちなみに、側室は王にどれだけ寵愛されたかによって品階が違っていて、最上位は正一品で下は従四品までありました。それぞれの品階には「正」「従」があり、「正」のほうが上です。たとえば、正三品と従三品だと、前者が上になります。
まとめて言うと、側室の品階は正一品から従四品まで8段階あったことになります。その中で、張禧嬪も淑嬪・崔氏も側室最高位の「嬪」を賜っていたわけです。
さて、心変わりした粛宗は張禧嬪を冷遇して淑嬪・崔氏を寵愛するようになりました。
この淑嬪・崔氏は仁顕王后を慕っていたので、粛宗に向かって「なんとか仁顕王后を戻してもらえませんか。あの方は張禧嬪の策略で陥れられたんです」と訴えます。
その願いが通じて、粛宗は張禧嬪を再び側室に降格させて、仁顕王后を王妃に復位させることを決意します。
このときも高官がこぞって反対します。すでに、粛宗と張禧嬪との間に生まれた息子が世子になってからです。次の王になる世子の母親を王妃の座から引きずりおろすのは道義的にもおかしい、というのがその理由でした。
そのときの粛宗の言い訳もしっかり「朝鮮王朝実録」に記されています。こうしてみると、粛宗にとって都合が悪いことが「朝鮮王朝実録」にはたくさん残っているわけです。
ちょっとそれを披露してみると……。
「奸臣たちにそそのかされて誤った処分をしてしまったが、今になって悟った」
「これまで辛抱してきたが、ようやく悪い連中を処分できたので、中宮(王妃)を迎えることができるようになった」
ものは言い様です。実際には、官僚は誰も粛宗をそそのかしていませんし、彼が辛抱したという事実もありません。もちろん、悪い連中を処分したということもないのです。張禧嬪に飽きたし、淑嬪・崔氏に懇願されたという結果がすべてなのです。
1694年、仁顕王后は再び王宮に戻ってきました。廃妃された王妃は何人もいますが、復位できたのは彼女が初めてです。まさに前代未聞の出来事でした。
この年には淑嬪・崔氏が粛宗の息子を産んでいます。この子が後に22代王になる英祖(ヨンジョ)です。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)