朝鮮王朝の終焉/康熙奉の朝鮮王朝人物史27

政権を掌握して開国政策を進めた明成(ミョンソン)王后は、興宣大院君(フンソンデウォングン)が仕掛けた政変で1882年に追放されます。しかし、彼女は清に助力を求めて巻き返しをはかり、再び王朝内で主導権を奪い取ります。その結果、清の影響力が極端に強くなりました。





大韓帝国への国号変更

不満をあらわにしたのは開化派でした。彼らは明治維新や福沢諭吉に影響を受けた親日派が中心で、1884年12月にクーデターを起こして一時は王宮を支配しますが、清の軍隊の介入によってそれも「三日天下」で終わってしまいます。
内政でも外交でも混迷をきわめる朝鮮半島。1894年3月には、農民が重税に抗議して内乱(甲午農民戦争)が起こりますが、これをきっかけにして、朝鮮半島での利権を争っていた日本と清が衝突して日清戦争が始まります。
日本はこの戦いに勝利して、朝鮮半島から清を追い出しました。清に頼っていた明成王后は次にロシアに近づきましたが、その動きを察知した日本は1895年10月に明成王后を暗殺しました。
この事件に恐怖を感じた高宗(コジョン)は、1896年2月にロシア公使館にたてこもり、親日派の高官たちを逆賊として厳しく処罰。やがて1年ぶりに王宮に戻った高宗は、1897年10月に国号を「大韓帝国」と改め、自ら皇帝を名乗るようになりました。




ロシアが大韓帝国の後ろ楯になっていることに危機感を感じた日本は、ロシアとの対決姿勢を鮮明にしていきました。
その結果、1904年2月に日露戦争が起こりましたが、勝利した日本は1905年11月に大韓帝国の外交権を奪い、首都の漢陽に統監府を設置して内政にも干渉。窮余の策として、高宗は1907年、オランダのハーグで開催された万国平和会議に密使を送りました。
日本の干渉に対する不当性を訴えようとしたのですが、それが失敗に終わり、高宗は退位せざるをえなくなりました。
皇帝を継いだのは純宗(スンジョン)ですが、すでに実権はなく、日本の指示を受け入れることしかできませんでした。その末に、ついに朝鮮王朝の終焉を告げる日を迎えることになりました。
それは、1910年8月22日でした。この日、日本と大韓帝国の間で「日韓併合ニ関スル条約」が調印されました。大韓帝国の皇帝が一切の統治権を日本に譲渡するという内容でした。




7日後に条約は公布され、国号の「大韓帝国」は消えて、地域名が朝鮮となりました。統監府に代わって朝鮮総督府が置かれ、武断的な朝鮮統治が始まったのです。これによって朝鮮王朝は滅亡しました。
なお、高宗は1919年に67歳で亡くなり、純宗も1926年に52歳で世を去りました。朝鮮王朝は27人の王によって引き継がれてきたわけですが、1926年以降は存命の王が1人もいなくなりました。「血の系譜」という意味でも、朝鮮王朝はこの世から完全に滅びてしまったのです。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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